橋本裕の日記
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2001年11月09日(金) 数学軽視がもたらすもの

 かってプラトンは自らの学校の門に「幾何学を解せざるもの入るべからず」という標語をかかげた。当時数学と言えば幾何学だったから、この言葉は数学が学問の基本であることを宣言しているわけだ。

 こうした数学重視の伝統は西洋社会に受け継がれている。たとえばアメリカには約2000校の大学があるが、そのなかの4分の3にあたる1500校が数学科をもっている。

 これに対して、日本は600校ほどある大学のなかで、数学科を持っているのはたった60校、全体の10分の1である。日本の大学でいかに数学が冷遇されているかわかる。

 また、当然ながら、日本の大学生は大学でほとんど数学を履修しない。しかし、西欧の大学では一般教養の数学はかなり充実しており、文化系の学生でも自らのレベルにあった幅広い数学の授業を履修している。

 もちろんアメリカの学校で履修される数学は「受験数学」ではない。これと対極にある「教養としての数学、文化としての数学」である。それは人がまっとうに物を考えようとすれば避けて通れない論証の技術であり、人間の知性の偉大さを実感できるもっとも誇らしい教養である。日本に欠けているのは、こうした文化としての数学を尊重する精神であろう。

 京都大学の宇敷教授は「分数ができない大学生」のなかで、「京都大学では、教養部解体とともに、新しい大学院や学部が創設された。学生数は増加したが、数学を担当する専任教官の数は二割程減少した。文部省や大学当局が、科学・技術の底辺を支える数学をないがしろにするのはなぜなのか理解に苦しむが、現実は数学に関しては教育崩壊の方向に向かっているといわざるをえない」と書いている。

 アメリカでは1980年代に教育の見直しの機運が高まり、全米科学アカデミーが「数学的問題解決の方法を学ばなければ将来、世界から取り残される」という危機意識を全面に出した報告書をまとめている。これを受けてブッシュ大統領は一般教書の中で数学教育の充実を約束し最優先で実施した。

 日本の官僚や政治家にこの危機感はない。それは中央教育審議会に数学の専門家をひとりも採用しなかったことでもわかる。諸科学と文化の父である数学を軽視して、国の繁栄や発展があり得ないことはわかりそうなものだが、数学に疎い日本の官僚や政治家にはこうした自明の理さえわからない。これも、彼らが「受験数学」に毒されたことの後遺症かも知れない。


橋本裕 |MAILHomePage

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