橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2001年10月17日(水) タリバン登場の背景

 アフガン王国崩壊からタリバン登場までのことを、もう少し詳しく書いておこう。1973年7月17日、国王ザヒル・シャーが眼の治療のためイタリアを訪れていた間、彼の甥であるダウド将軍が共産党の支援のもと、クーデターを起こした。

 この新政府の閣僚14人中、7人はアフガニスタン共産党党員であり、また約160人の共産党員が行政官として地方に派遣された。この共産党シンパ政権はソ連の影響のもと、反イスラム政策を押し進め、これに抵抗するイスラム勢力を弾圧した。

 しかし、やがてこの共産党政権内で「流血の内部抗争」が始まった。1978年4月にダウド大統領が軍のクーデターにより暗殺。タラキがつぎの大統領になったものの、またも暗殺。彼の後継者アミンもソ連進行時に暗殺され、カルマルが大統領になった(1979年12月)。この間、わずか20ヶ月くらいの出来事である。

 しかし共産党の影響力が増すにつれ、アフガン国内・国外で反体制運動、反共運動が盛んになった。1978年12月、この混乱に乗じて、ついにソ連軍がアフガニスタンの地に侵攻してきた。その数、10万人。米ソ冷戦・開発競争がもたらした最新式の装備で彼らはやってきた。

 名目は「反体制運動により、アフガニスタンの治安は悪化した。これを回復する」ということだが、しかし、その本当の目的は共産圏拡大と領土的野心だった。これに危機感を抱いたのがパキスタンやアメリカで、彼らはソ連の共産党勢力と対抗するムジャヒディン(「イスラム聖戦士達」の意)に肩入れした。

 これが以後今日まで続く内戦のはじまりである。アメリカ、パキスタン、サウジアラビア、イランなどに応援されたムジャヒディンはアメリカから供給された最新式の武器を取って、10年間これと戦い、ついにソ連を追い出した。しかし、ソ連が撤退した後も、平和は訪れなかった。

 それぞれのムジャヒディンのグループが、彼らを支援する国々の思惑の違いから、再び反目しあって内戦を始めたからである。たとえばパキスタンはのヘクマティアルを支援した。アフガンで最大の部族であるパシュトゥン人のヘクマティアルに権力を握らせて中央アジア・イランとの貿易ルートを独占し、パキスタン最大のライバル、インドとのカシミール紛争を有利に導こうと考えた。

 それに対抗するために、インドはヘクマティアル最大のライバルで、タジク人のラバニ・マスードを支援した。タジキスタンも同様に、ラバニ・マスードを支援した。そうするとウズベキスタンはウズベク人のドスタムを支援した。

 サウジアラビアは国教であるイスラム教ワッハーブ派の拡大と、内戦後のアフガニスタンに与える影響力を睨んで、違う陣営に属するヘクマティアルとサヤフを支援。イランはアフガニスタンでは少数のシーア派を今後も存続させるために、両勢力のシーア派を支援した。隣国が完全なスンニ派の国家になっては困ると考えたからだ。

 こうした隣国の思惑の絡んだ身勝手な支援は、アフガニスタンをさらに混乱させ、400万人以上の難民を生みだすことになった。ムジャヒディンたちは、その組織の大小を問わず、略奪や暴行を働き、一般の人々から煙たがられていた。中には落ちぶれて山賊と化したムジャヒディンもいて、地方で暴れ、勝手に通行税を取り、国内経済をマヒさせた。もはやその名に「聖戦士」の面影はなかった。

 混沌とした状況を人々が憂い始めていたとき、一つの希望が見えた。この状況を一変する新たな勢力が登場したのである。1994年11月、南部の都市カンダハルにその勢力は現れた。それが「タリバン」だった。あしたはこのタリバンについて、少し詳しく書いてみよう。

(参考サイト)   ソ連介入後のアフガニスタン内戦


橋本裕 |MAILHomePage

My追加