橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2001年10月16日(火) カンダハルの石榴

 カンダハルは首都カブールにつぐ人口を持つアフガニスタン第二の都市だが、その歴史はカブールよりも古く、アフガニスタンではヘラートと並ぶ由緒ある古都だ。この辺りに人が住み始めたのは紀元前3000年前の青銅器時代だが、都市国家としての古代カンダハルは紀元前500年にまでさかのぼる。

 カンダハルは東はインド、アラビア海へ、西はヘラート、イランへと続く古代貿易路の結び目に位置していた。この街には古来から豊かな貿易商が住み、バザールは美術・工芸の多彩さで有名だった。

 また、カンダハルの名は、ブドウ、メロン、桑の実、イチジク、桃、ザクロの産地としてインド、イランにまで知られていた。カンダハルの果樹園でとれたザクロは1000年前に書かれたペルシャの医者の処方箋にも記されているし、前世紀にはデリーのインド総督の食卓にも供されていたと言う。

 6世紀の中国とインドの文献は、ガンジス川の東に住んでいたパシュトゥン人について述べている。この部族は15世紀になると西方へ移動を始め、やがてカブール、カンダハル、ヘラートに達した。パシュトゥン人は自らの出自を、預言者モハメッドの友人クァイスに遡ると主張している。

 1747年、部族長たちがカンダハルに集まり、アハマド・シャー・アブダリを王に選出した。アハマドはすべてのパシュトゥン人部族をまとめ、最初のアフガン帝国を築いた。アフガン民族の父と言われる彼は聖人としてカンダハルにある壮麗な墓所に埋葬されていて、今日でもアフガン人たちが大勢礼拝にやってくるという。

 彼の息子の代になって、都はカブールへとうつった。以後、隣国インドを植民地化した英国はアフガニスタンもまた属国にすべく、3度にわたり侵攻したが結局失敗し、1973年、ザヒル・シャー国王がいとこのダウドに追放されるまで、200年以上もアフガン王国の繁栄は続いた。

 ダウドはもとより親ソ派で、ソ連から援助を受けていたが、やがて親ソ派のなかの内部対立で、5年後の1978年4月、ソ連で軍事訓練を受けた軍内部のマルキストシンパによって倒された。ダウドと家族たち、そして護衛たちも全員が殺されたという。

 こうしてアフガン王国が滅びた後、アフガンの各民族、各部族の対立がはじまった。そしてアフガンの混乱のなかで、1979年末にソ連が進行してきて、さらに内戦が激化した。古都カンダハルを占拠したソ連軍に対して、イスラム戦士(ムシャヒディン)たちが立ち上がり、果樹園に実を潜めて激しく抵抗した。

 ソ連は数千本の果樹を切り倒し、果樹園の灌漑設備を破壊した。そこに世界で最も高密度といわれる地雷が埋められ、多くの農民は職を失って難民と化した。10年近い戦いの後、結局ソ連は破れてカンダハルを撤退したが、荒廃した農園がそのあとにのこされた。

 1990年以降、荒れ果てた果樹園にもどってきた避難民たちは、生活のためにケシを育てはじめるしかなかった。かってカンダハルの果樹園は王侯貴族にまで供された香しい果物の産地だったが、いつかそれが悪名高い麻薬の産地になってしまった。

 ソ連はムシャヒディン鎮圧のために、毎年50億ドル、総額450億ドルをアフガニスタンにつぎ込んだという。これに対抗して、アメリカ、パキスタン、サウジアラビアもまた総額で100億ドル以上をムシャヒディン側に注ぎ込んだ。これらの援助の大半は強力な近代兵器だった。今のアフガニスタンの殺伐とした光景はその代償である。 


橋本裕 |MAILHomePage

My追加