橋本裕の日記
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アフガニスタンの映像を見ていると、殺伐とした砂漠と廃墟ばかりが目に付く。その昔、この不毛の地に西欧世界をも圧倒するような香しい文化と文明があったことを誰も信じないだろう。
今日はアフガニスタンの西部にあるヘラートという都市について書いてみよう。なぜならこのヘラートこそ、アフガニスタンの歴史と文化の揺籃の地だからだ。この地に人が棲みついたのは5000年も前である。灌漑農業が進み、中央アジアで最も豊かな土地だと言われたその文明の輝きは古代ギリシャにまで届いていて、歴史家ヘロドトスはヘラートを「中央アジアのパン籠」だとほめたたえている。
歴史の夜明け以来、この地は文明の十字路として栄えた。ここは原始宗教ゾロアスター教の地であり、仏教系、ペルシャ系、トルコ系の美術と建築が建てられた世界最古の都市の一つである。
巡礼者や商人たちがシルクロードを伝ってこの都市を訪れ、そして遠く中国やヨーロッパへと旅立っていった。ギリシャ人たちもまたここを訪れ、ギリシャ文化とアジア文化が出会い、その文明の輝かしい対話の中から新たな芸術が創造された。
こうした豊かな文化的遺産の上に、さらにイスラムの文化が移植され、あでやかに華開いた。市の中心にあるモスクは7世紀に創られ、12世紀に再建された。1088年に没したヘラートの聖者ハワジャ・アドブラ・アンサリはイスラム神秘主義の詩人で、今もなおアフガニスタンで人気があって、崇拝者がたくさんいるという。
1222年に地獄がこの文化都市を襲った。チンギス・ハンがヘラートを占領し、16万の市民を殺害した。このとき助命されたのは40人にすぎなかったというから、ほとんど皆殺しにされたわけだ。
しかし、2世紀後、ヘラートは奇跡的な復興をはたした。チムール帝国のシャー・ルフ王が都をサマルカンドからヘラートへと移したからだ。彼はペルシャ、インド、中央アジアから職人を集め、何十ものモスク、学校(マドラサ)、公衆浴場、図書館、宮殿を建設した。
ヘラートのバザールは復活し、精巧な絨毯や、宝石、武器、タイルや精密画が売られた。当時首相を務めたアリシェルは「ヘラートでは、足を運べば詩にぶつかる」と書いているが、かれ自身詩人で画家、作家でもあった。
シャー・ルフ王の妃ゴワール・シャドの墓は、花模様のペルシャ青のタイルで覆われ、青いドームには真っ白な文字でコーランが書き付けられ、世界でもっとも精巧なイスラム建築の一つだった。この墓を見た詩人のバイロンも「神と自らの栄光のために、人間が作り出した、もっとも色彩の美しい建築の例だ」と述べている。
シャー・ルフ王とその妃ゴワール・シャドはこうした美しい建造物を300ほども建てたと伝えられている。しかし、これらの建造物の大半が1885年にイギリスによって破壊された。
さらに1980年にソビエト軍がヘラートを爆撃して、モンゴル人よりも大きな打撃を与えた。ソ連軍はイスラム戦士を近づけないために、この一帯を地雷源にした。今日ヘラートは、世界でもっともひどく破壊され、最も多くの地雷が埋められている都市だという。
そして1995年9月、タリバンがヘラートを占領した。タリバンは市民数百人を逮捕し、すべての学校を閉鎖して、女性には外出禁止令を敷くなど、厳しいイスラムの掟を強制している。数千年の文化と歴史を誇るこの都市が、再びその廃墟のなかから甦る日のあることを、アフガニスタンの人々とともに祈らずにはいられない。
(参考) 「タリバン」 アハメド・ラシッド著 講談社 2000年刊
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