橋本裕の日記
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| 2001年09月26日(水) |
競争から共生の教育へ |
日本の教育は画一的だという批判がある。知識偏重で、個性が尊重されず、独創性が育たないという批判である。この画一性がどこから来たのか、その歴史を振り返ってみよう。
意外なことに、明治政府が当初めざしたのは、国家のための教育ではなく、個人のための教育であった。福沢諭吉流に言えば「一身独立して、国家独立す」という考え方が根底にあった。
1872年の学制公布にあたって出された太政官布告では、「身ヲ修メ、智ヲ開キ、才芸ニ長ズルハ学ニアラザレバ能ワズ」と学問こそが世に立つ基であることを明らかにし、「必ズ邑(むら)ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ人ナカラシメン」として、教育の平等を強く打ち出している。実際その後わずか5年ほどで2万6千校以上の小学校が設置された。
1879年に出された教育令でも、強制的、画一的教育を排すべきとされた。自由な教育が国の政策だったのである。「国家のために学問をするという考えは誤りで、各人が身を立てるためにすべきである」と述べられている。
1890年に教育勅語が出て、この流れが変わったが、それでも、大正期には「新教育運動」として、自由な教育をめざすさまざまな試みが行なわれた。しかし、この動きは、戦時体制の中で抑圧された。太平洋戦争を控えた1940年、国家総動員態勢が敷かれ、教育にも軍隊式の規律と服従の集団主義が浸透した。
戦時体制下において、個人は国家への絶対的な服従が要求される。1941年に公布された国民学校令はその具体化である。学校行事や団体的訓練などをとおして、徹底的な個人主義敵視、集団主義尊重の、国家主義的画一教育が実施された。
戦後、1947年に学校教育法が公布され、教育理念の民主化がはかられた。しかし、経済復興を優先させる必要から、この理念はほとんど実行されなかった。集団的規律という戦時体制に適した人材は、戦後の高度成長期においても求められた。社会が産業戦士として従順で没個性的、画一的な人材を要求し続けたからである。
東大教授の野口悠紀夫さんは、日本は現在も「1940年体制」を続けているという。つまり戦後半世紀以上経っても、いまだに私たちは集団的画一主義の戦時体制のまま走り続けているわけだ。
しかし、この体制は「工業化社会」では通用したかも知れないが、「情報化社会」ではかえって足かせになる。産業界や企業もこの事に気付きだした。そこで旧体制を脱却して、個性重視のシステムを作り上げることが急務であると発言し始めた。
「1940年体制の打破」は必要だが、そのことで真に自立した個性が育つと考えるのは幻想である。「集団に埋没しない個性を」という教育改革のスローガンは美しく響くが、一体だれのための教育改革であるのか、その根底にあるのは「経済体制優先」「競争重視」の個人主義である。
「一身独立して国家独立す」というのは、現代において、どれだけ意義のある主張といえるだろう。むしろ新しい国家主義の復活でなければ幸いである。現代において本当に個性的な教育を実現しようと思ったら、「地球人類の共生」という国家の枠を超える人類共同体を視野に入れた発想に立つ必要がある。
日本の教育改革に欠けているのはこうした「共生志向」の発想であろう。個人の自由と独立は実のところ、豊かな共同社会のたまものであることを知らなければならない。
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