橋本裕の日記
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幕末、幕府はオランダに軍艦咸臨丸を注文した。咸臨丸はライン川のほとりのキンデルダイク(赤ちゃん堤)にある造船所でつくられ、1858年の春に軍港ヘルフットストラス(地獄への第一歩)で装備されて、オランダを旅立った。
咸臨丸は軍艦と言っても、排水量2〜300トンの小型艦で、大砲も一段しかそなえてなかった。この小型艦をはるばる日本まで運んできたのは、オランダ海軍のカッテンディーケ少佐で、同年の8月5日に長崎港に着いている。
幕府は咸臨丸を海軍の練習船にした。そして招聘したカッテンディーケ少佐のもとで、さっそく勝海舟らを精力的に学ばせた。カッテンディーケ少佐は2年ほど教えた後、オランダに戻り、のちに海軍大臣になった。「長崎海軍伝習所の日々」という著作も残している。
オランダ軍人のカッテンディーケのもとで勝海舟らはよく学び、わずか2年後の1860年1月には自らこの船を操縦してアメリカに渡った。このとき福沢諭吉も同行している。
こうして日本史にさっそうと登場した咸臨丸だが、アメリカから帰国後、どうなったかあまり知られていない。さいわい司馬遼太郎さんが「オランダ紀行」のなかに記してくれている。
帰国後、小笠原開発の御用船になったが、破損したため、蒸気機関をはずして純粋の帆船になった。幕府が瓦解すると、榎本武揚らとともに江戸湾を出たが、途中で新政府軍に拿捕された。
明治になっても、北海道開拓使の官船として働いたが、1870年に函館港外で風のため破損し、翌年には民間の運送会社に払い下げられ、ほどなく廃船にされたようだ。
「明治5年に廃船にされたとすれば、建造後わずか15年の船齢なのだが、老化がはなはだしかった。2,3百トン(400トンという説もある)の小船にしては建造後の回航だけでも世界一周であり、その後太平洋も往復しているのである。働き過ぎと、当時の人々の操船の未熟さが、寿命を早めたのかも知れない」(「オランダ紀行」司馬遼太郎)
廃船にされないで、今日博物館に残っていれば文句なしの国宝だろうが、惜しい話である。しかし、咸臨丸は勝海舟や福沢諭吉を乗せてはじめて太平洋を渡った船として、私たち日本人の記憶の中にいつまでも生き続けるだろう。
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