橋本裕の日記
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私は小学生の頃の数年間、若狭の小浜市で暮らしたことがある。私の通った小学校は城跡に建っていた。もともとは小浜藩の藩校だったのだという。この小浜藩は10万3千石の小藩ながら、藩主の酒井家は初代の大老を出したほど、幕府では重きをなしていた。
杉田玄白(1773〜1817)はこの小浜藩の藩医だった。1772年3月4日、彼は一冊のオランダ語の医学書「ターヘル・アナトミア」を胸に忍ばせて、江戸の小塚原の刑場におもむいた。
そこで解剖(ふわけ)された50歳ほどの女性の内蔵と胸中の本とを比べて、彼は西洋の医学書の人体図が精密に人体の内景を写していることに感嘆した。そして前田良沢などの同志をあつめて、この本を翻訳することを決意した。こうして完成したのが「解体新書」である。
翻訳に当たって、だれもほとんどオランダ語を知らなかった。辞書もなく、オランダの通司もいないなかで、まったくのてさぐり。ウエインブラーフという語が眉毛だと気付くのに、一日かかったという。玄白は晩年に「蘭学事始」という本を著して、この苦労話を書いた。
これは筆写本で、世の中に余り流通したわけでもなく、すぐに忘れられた。しかし、幕末になって、福沢諭吉が神田の古本屋で偶然この本を手にした。その本を読みながら、彼は先人の苦労を思い、涙が流れて仕方がなかったという。彼はさっそくこの本を自費出版して、広く世間に報せた。
福沢諭吉が始めてオランダ人に会ったのは、1860年にオランダ製の咸臨丸に乗ってアメリカに渡ったときだという。サンフランシスコの近くに住むオランダ人医者が日本人に親しみを寄せて、艦長の木村摂津守とその通訳の福沢を自宅に招待してくれた。
それは福沢にとってはじめてアメリカの家庭風景を見る機会だった。彼が何よりも驚いたのは、夫人が客をもてなし、主人が台所で立ち働く光景だったという。日本とはアベコベだと「自伝」に書いてある。
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