橋本裕の日記
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2001年09月21日(金) 挑戦する男たち

 1598年、秀吉が死んだ年、オランダから5隻の船が東洋を目差して出航した。「希望号」「信仰号」「信義号」「使命号」「慈愛号」である。6月27日の事だという。

 しかしこの船団は次々に不幸に見舞われた。まず、三ヶ月後に提督が病死してしまう。そして翌年4月1日にマゼラン海峡に達したときには、飢えと寒さが船団を襲い、多くの乗務員が死んだ。

 マゼラン海峡を渡ると、南太平洋である。ここで暴風雨にあい、まず「使命号」が脱落。南へ流されて食料が尽きたこの船は、結局チリ海岸に漂着し、スペイン人に投降して、「使命」を果たすことができなかった。

「信義号」はもっと悲惨で、86人のうち24人しか生存せず、しかもモルッカ諸島の(インドネシア)のチドール島でポルトガル人に拿捕されて、多くが殺されてしまったという。

「信仰号」も飢えと寒さで乗員の半数を失い、結局オランダに引き返すことを余儀なくされる。暴風雨の前に「信仰」の力も太刀打ちできなかったようだ。

 結局残ったのは、「希望号デ・ホープ」と「慈愛号デ・リーフデ」の二隻だけになった。ところが二隻ともすでに船長がいない。一人は病死し、もう一人はスペイン人との交戦で死んだという。

 この二隻の船の乗務員が今後の身の振り方について会議を開く。そしてその結論は初志貫徹して「日本」を目差そうというものだった。しかし、チリ海岸から日本までは遠い。

 1599年11月27日に二隻の船は、進路をひたすら北西に向けたが、3ヶ月後再び暴風雨に遭遇。「希望号」は行方不明になり、おそらく沈没したらしいという。

 こうして、「慈愛号」だけが太平洋の荒波を抜けて、日本にたどり着いた。1600年2月23日のことだという。場所は豊後の臼杵湾。110人いた乗務員はこの1年8ヶ月の航海の間に24人に減り、しかも生存者も多くは病んでいて、漂着したとき立って歩けたものは6人だけだったという。

 家康は大阪城でこの報を聞いた。そして彼らの代表を大阪城に呼ぶことにした。雇われ航海士でイギリス人のウイリアム・アダムス(1564〜1620)とオランダ人のヤン・ヨースティン(1556〜1623)がさっそく大阪城に出向いて、家康と対面した。

 家康はこのときはじめて「オランダ」という国の存在を知ったに違いない。そして艱難辛苦を乗り越えてやってきた船団の物語を聞いて、海の男たちの勇気に驚いたことだろう。

 家康は二人に幕臣の地位と、屋敷地を与えた。アダムスは三浦按針と改名して江戸日本橋近くの屋敷に住んだ。ヤン・ヨースティンの屋敷は現在の東京駅八重洲口の八重洲にあったという。この八重洲(やえす)という地名は、オランダ人「ヨースティン」の名前のなまったものだ。

 五隻のうち日本にたどり着いたのは「慈愛号」の一隻だけだったが、この一隻が日本の運命に大きな関わりを持つことになる。もし、「慈愛号」もまた太平洋の藻屑になっていたら、日本はオランダという西洋に開かれた安全な窓を持つことはなかっただろう。

 オランダは多くの犠牲をおかして、地球の裏側からはるばると日本に出会いを求めてきた。そのおかげで、日本はオランダという理想的な教師にであうことができた。日本はオランダから実に多くのことを学び、今も学びつつある。

(参考文献) 「オランダ紀行」 司馬遼太郎著 朝日文庫


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