橋本裕の日記
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昨日は「モノの世界」について書いた。モノとは実体であり、主語となりうる存在である。しかし「モノ」がその霊力を失うとき、それはたんなる客観的存在としての「物」になる。
現代の私たちは「モノの世界」に生きているという実感は乏しく、むしろ「物の世界」に生きている。ニーチェがいう「神は死んだ」というのはこのことだろう。すなわち、存在には二通りの在り方がある。 �� モノとして在ること �� 物として在ること
しかしここに、もうひとつ別の世界がある。それが「コトの世界」である。コトとは出来事(現象)だが、しかし単なる出来事ではない。それは、人間の精神活動によって生命を与えられた生きた現実である。
「コトがコトとして成立しうるには、私が主観としてそこに立ち会っているということが必要である」(木村敏「時間と自己」)
たとえば、いま私たちの目の前で一匹の蛙が池の中にぽちゃんと飛び込んだとする。それはひとつの何でもない「出来事」である。しかし、それをみた私が芭蕉の有名な俳句を思い浮かべたとしよう。
古池や 蛙飛び込む 水の音
そうすると、「蛙が池に飛び込んだ」という現実が、また違った風に生き生きと体験される。なぜなら、その出来事に私という存在が関与し、立ち会っているからである。それはもはや単なる客観的なよそよそしい出来事としてではなく、私という存在によって意味を付与された、もっと精彩のある主観的な「コト」として存在する。
そうすると、モノの場合と同じように、コトについても、二通りの存在様式が考えられる。 �.灰箸箸靴討△襪海� �∋�としてあること
「モノの世界」とは私たちの向こう側にある「客観的世界」である。これに対して、「コトの世界」は私たちの側にある「主観的世界」だということができる。
そして、「モノ」がモノとしての客観力を失うとき、「物」としての存在に還元されるように、「コト」もまたそこに立ち会うべき主観の力が衰えるとき、それは「事」へと還元される。
しかし「コトの世界」が単なる主観的存在かというとそうではない。それはあくまでも客観的存在として私たちに意識される。だから、それは主観と客観をそれぞれ縦糸と横糸として織り上げられた共同作品だと言える。
そうすると、「客観−コト−主観」という図式が思い浮かぶ。しかし、ここで肝心なことは、「まず客観や主観があって、それらの働き合いによってコトの世界が産み出される」と考えるのは、正しい認識とはいえないということである。ここで思い浮かぶのは、私を哲学に目覚めさせてくれた、つぎの言葉である。
「自我があって経験があるのではない。経験があって自我があるのである」(西田幾太郎「善の研究」)
西田がここで「経験」と言っているのは、私たちの言葉で言えば「コトの世界」である。だから西田の言葉は、「主観や客観があってコトの世界があるのではない。コトの世界がすべてであり、主観や客観はそこから推論された形而上学的観念(ドグマ)である」という風に敷衍される。
そこで再び、基本的な存在様式である、 �� モノとしてあること �� コトとしてあること について考えてみよう。
西田的経験主義の立場に立てば、�△�すべてであり、コト(経験)を第一義的に考えなければならない。そうすることで、首尾一貫した哲学の体系がうち立てられる。すくなくとも「善の研究」にみられる初期の西田はこのように考えていたのだろう。
しかし、たとえそれが正しい哲学的認識であっても、実際のところ、「モノの世界」は「コトの世界」のただ中に、その彼岸として立ち現れてくる。私たちは「コトの世界」を深く経験するにつれて、いやおうなく、「モノの世界」に対面させられ、そのまか不思議な威力を再認識することになるのではないだろうか。
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