橋本裕の日記
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2001年09月13日(木) モノの世界

 北さんから、なぜ「無常と言うこと」とは言うのに、「無常というもの」とは言わないのか、質問を受けた。Tenseiさんによれば、「無常観というもの」という言い方はあるとのこと。

 私の考えを言えば、「モノは主語となりうる実体をあらわす」「コトはその実体の在り方(状態)をあらわす」ということだ。実体(主語)は実際に存在するもの(固有名詞、一般名詞)ばかりではなく、「真・善・美」や「無常観」と言った理念(抽象名詞)もふくむ。

 こう考えれば、「無常」がコトに、「無常観」がモノに分類される理由ががわかる。つまり、「無常」というのは状態概念だから、コトでうけるのが相応しいわけだ。だから、もともと「○○ということ」というのは日本語として少し無理がある表現で、「○○であること」というのが自然である。

 なお少し付け加えると、「無常であること」という風に、コトをつけることで、状態は名詞化(実体化)される。だから、「人間というモノ」と言う場合、人間=モノだが、「人間であること」と言う場合は、人間=コトではない。「人間である」という状態を名詞化しているのである。

 そうすると、世の中には二つの世界が存在することになる。すなわち、「モノの世界」と「コトの世界」である。今日は「モノの世界」について、もう少し考察してみよう。

 たとえばここに大きな岩があるとする。そうすると、昔の人は一体誰がこんなに重いものを運んできたのか不思議に思ったに違いない。そして人知と人力を越えた世界をそこに感じた。そうした人知と人力を越えた世界が「モノの世界」である。

「モノの世界」は今日でいう「物質の世界」とは少し違っていて、それは、同時にまか不思議な神々の支配する世界でもある。昔の人は、人間の向こう側にある人力の及ばない世界に畏敬を覚え、これを崇拝した。森や川や岩などがそうである。蛇や熊やキツネでさえも信仰の対象になった。

 人間も死者はもうこちら側の世界に属さないので、一種のモノということになる。時には生者でさえも、モノになった。生き霊とか鬼がこれである。源氏物語を読むと、いたるところにこうしたモノノケが顔を出している。こうした鬼やモノノケについての恐ろしい話が、すなわち「モノ語り」であった訳だ。だから「源氏物語」はたしかに「モノ語り」の資格をそなえている。

 こうしたモノの世界は近代が始まり、人知や人力が拡大するとともに、急速に衰退していった。「モノ」は単なる物質上の「物」になり、もはや畏敬の対象ではなくなった。こうして「モノの世界」は「物の世界」へと姿をかえていった。「モノ語り」も「物語」になって、つまらなくなった。

 しかし、今日でも「モノの世界」がまったく滅びたわけではない。たとえば、私たちが日常的に使う言葉にもその痕跡が残っている。私たちは「子供は親に反抗するモノだ」という風な言い方をする。このとき、モノという言葉は「私たちの力では変えることができない掟」のようなものを表している。モノはこうして、北さんのいう「普遍的原理」に結びつく。

 北さんの質問をもう一度繰り返せば、「諸行無常」もこうした普遍的原理だから、「モノの世界」に属するのではないかということだ。そうすると「無常というモノ」という言い方ができる筈だが、まずこういう言い方は一般的ではない。何故だろう、ということだった。

 その答えは、最初に述べたように、「無常」というのがそもそも「状態概念」だということだ。しかし、コトによって名詞化すると、そこになにかしらの「モノ的要素」が付け加えられる。さらに「無常であること」=「無常」と言う風に進んで、さらにこの傾向が進むと、それは「美」や「善」といったイデアの世界に入っていく。

 こうした「無常」のモノ化がさらに進むと、「無常というモノ」という表現が可能になってくる。北さんの頭の中では、この過程がかなり進んでいると思われる。しかし、一般人の頭の中ではまだそこまで「モノ化」が進んでいない。

 したがって私たちは一般に「無常というもの」という言い方をしないで、「無常ということ」と言う。そして、私はこれが正しい日本語であり、また正しい世界の認識の在り方だと思っている。

 その理由については、「人間を守るもの」のなかにも書いたが、「実体のないものを実体とみなす」ことに反対だからだ。たとえば「国家」がそうであるように。「モノの世界」から「コトの世界」へというのが仏教の「空観」の基本だが、「コトの世界」から「モノの世界」への移行は、迷いの世界への逆行ではないだろうか。


橋本裕 |MAILHomePage

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