橋本裕の日記
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2001年09月10日(月) オランダの歴史(後編)

 17世紀のオランダは、世界に先駆けて「市民社会」を作り上げた。そしてオランダ人は、どの国とも気負いなく貿易をした。オランダという母国に縛られることなくどこへでも出かけることができた。つまり環境や因習にとらわれない自由で先進的な気風がオランダの国民性として培われた。オランダは世界に進出し、ついには極東の日本にまでやってきた。

 北海のニシン、東南アジアの香辛料、大西洋の奴隷、バルト海からの穀物や造船材料はすべてオランダ経由で西ヨーロッパに輸入され、文字通り世界の金融がアムステルダムに集まり、世界史で初めて貿易立国としての繁栄を勝ち取った。アムステルダムのみならず、デルフト、ロッテルダムといった地方都市も繁栄を謳歌した。

 フランス生まれのデカルトはオランダに来たとき、人はいかに自分が育った環境の因習にとらわれているのかを知った。彼は晩年の20数年間をオランダで暮らしたが、彼の近代合理思想はこうしたオランダの精神風土の賜だと言える。

 イギリスの「立憲民主主義」の思想家ジョン・ロックも清教徒革命の後迫害されて、5年余りをオランダで過ごしている。オランダ生まれのスピノザはユダヤ教会から破門されても、母国を離れることなく、アムステルダムで不自由なく思索を続けることができた。

 こうしたオランダと組んでスペインと対抗したイギリスは、その後もオランダとの関係を深めた。当時の英国はまだ後進国で、羊毛が最大の輸出品であった。それをより価値の高い毛織物などにして輸出するには、オランダの進んだ技術が必要である。

 そこでエリザベス一世はオランダから毛織り職人を招き入れ、毛織物に関する生産・販売に関する「独占的実施権」を与えた。そしてその見返りに女王は、上納金を課した。

 その後、英王室は上納金目当てに独占的実施権を乱発して、トランプの製造・販売まで特定の業者が独占するまでになり、ついに議会は1624年に「専売条例」を制定して、発明と新規事業に限って特許権を発行できるようにした。この専売条例が、近代特許法の原型と言われる。

 専売条例のもとで、新しい技術の発明者は、最長14年間の独占権を認められ、その間に収入を得ることができる。その期間が過ぎれば、独占権は消滅し、多くの業者によってその技術が普及する。このように特許は、技術の革新と普及を促進した。

 イギリスではこの条例のもとで、ジェームス・ワットの蒸気機関や、リチ
ャード・アークライトの水車紡績機など、画期的な新技術が次々と発明され、英国に産業革命をもたらした。こうして次第にイギリスの経済力がオランダを浸食していった。

 17世紀半ばになると世界的にイギリスの軍事的覇権が確立し、イギリスは続いて経済的な覇権をかけてオランダを挑発してきた。航海条例(1651年)が出され、オランダはイギリス領での商業活動を禁止されてしまう。

 17世紀の経済的繁栄のなかで民主化が進んだオランダは、オラニエ公家による総督制度を廃止し、強力な指導体制を欠いていた。こうした状況で、オランダは二度にわたってイギリスと戦争をするものの、圧倒的なイギリス軍の前に敗北を喫して、北米植民地を譲り渡さなければならなかった。こうして世界貿易の中心はアムステルダムからロンドンへと移った。

 この状況を虎視眈々と眺めていたフランスの太陽王ルイ14世は「ライン川まではフランスの領土でなければならない」と主張して、オランダに迫ってきた。イギリスに援助を求めたが得られず、ここに至ってオランダは、オラニエ公家の当主ウィレム3世を再び総督として迎え入れる。

 ウィレムはブランデンブルクのホーエンシュタウフェン家、そしてオーストリア、スペインの両ハプスブルク家と結んでブルボン王家を包囲し、太陽王の野望を食い止めた。そしてここにウィレムを始祖とする王国としてのオランダが成立する。現在のベアトリクス女王も、オラニエ家の出である。

 1689年、名誉革命によってカトリック信者のジェームス2世を追放したイギリスは、ウィレムに新国王になることを求めた。こうして彼はイギリス国王ウィリアム3世として、オランダ・イギリス両国の国王となり、英蘭の基礎的な関係がこのとき築かれた。

 その後、オランダ王国はナポレオン戦争で併合されたり、第二次世界大戦ではおよそ5年にわたってナチスドイツの支配下に置かれた。戦後主権を回復したオランダは、英独仏という西欧の3強国の戦争による悲惨を繰り返さないために、ベルギーなどとともに一貫してヨーロッパ統合を推進する役割を果たしてきた。そして1992年のEU条約は、オランダの田舎町、マーストリヒトで締結された。


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