橋本裕の日記
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2001年08月07日(火) 女神の死と再生

「新しい歴史教科書」には神武の東征の話とか、いさましい神話の世界がふんだんに記されている。しかし、神話におけるもっとも大切な事柄は、私たちの先祖が自分たちの「いのち」をどう考えていたのかということではないだろうか。

 私たち日本人の先祖が、「いのち」についてどのような認識を持っていたのか。また、命をやしなう「食物」についてどのような認識を持っていたのか。「古事記」や「日本書紀」を覗いてみよう。
 
「下界に下ったスサノオはオオケツヒメに食べ物を所望した。ところが、オオケツヒメは、鼻や口や尻から食物を出して饗宴したので、スサノオは怒ってヒメを殺してしまった。すると、ヒメの死体の頭に蚕、両目に稲、両耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生じた。そこでカミムスビノカミがこれを取って種にした」(古事記)

 私たちが口にする米や麦などの食べ物は、「女神の死」によって生まれた。しかも、女神の死はたんなる自然死ではない。殺戮による血なまぐさい死である。食物に先立つこの血なまぐささは注目にあたいする。

 ところで、オホケツヒメ(大気津比売、日本書紀では保食神/ウケモチノカミ)というのは、オホ(大いなる)ケ(食)ツ(の)ヒメ(女神)という意味らしい。全国に32000もあるという稲荷神社はこのオホケツヒメを祀っている。私は稲荷神社は狐を祀っているとばかり思っていたが、ちなみにキツネも古語ではケツネであり、分解すると、ケは御饌(みけ)のケ、つまり食で、ネは根。つまり、「食物の根源霊」で、つまりはオホケツヒメということだそうだ。

 話は変わるが、アイヌには「イヨマンテ」と呼ばれる熊おくりの儀式がある。人間に食料や衣料を提供してくれる熊を弔う儀式である。殺した熊を食べ尽くし無駄なく活用するならば、熊は生まれ変わってもまた身体を提供してくれるという「死と再生」の信仰である。

 東京都の公立小学校教諭だった鳥山敏子氏は、生徒達に「生きた鶏を殺して食べさせる」という授業を行っていたという。彼女はこのときの授業実践について、著書「いのちに触れる」の中でこう書いている。

「自分の手ではっきりと他のいのちを奪い、それを口にしたことがないということが、ほんとうのいのちの尊さをわかりにくくしているのだ。殺されていくものが、どんな苦しみ方をしているのか、あるいはどんなにあっさりとそのいのちを投げだすか、それを体験すること。ここから自分のいのち、人のいのち、生きもののいのちの尊さに気づかせてみよう」

 親鸞は「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」という名言をのこしている。親鸞のいう悪人には、生業のために「不殺生戒」をおかさずにいられない一般庶民がふくまれている。生きるといことは単なるきれい事ではない。そのもっとも根っこの真実を、日本の神話は、「女神の死と再生」の物語によって私たちに生々しく語りかけている。


橋本裕 |MAILHomePage

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