橋本裕の日記
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2001年07月23日(月) 山荘での勉強会

「志談塾」の塾長の野田さんは、教科諸問題と長年取り組んできた。いわゆる家永裁判を献身的に戦った人である。勉強会では野田さんが「新しい中学歴史教科書」のコピーを配りながら、3時間以上を費やして、その詳細な分析をレポートしてくれた。そのあと、12名の参加者たちが意見を出し合って、白熱した討論が交わされた。

 私は以前に市販された「新しい歴史教科書」を店頭で立ち読みしたことがあるが、短時間の流し読みだった。その本文をもう一度、野田さんの解説を聞きながらじっくり読んでみて、「なるほど、これはひどい教科書だ」と思った。

「歴史を固定的に、動かないもののように考えるのはやめよう。歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう。歴史を自由な、とらわれのない目で眺め、数多くの見方を重ねて、じっくり事実を確かめることにしよう。そうすれば、自ずと歴史の面白さが心に伝わってくるようになるだろう」

 最初に書かれた「歴史を学ぶとは」のしめくくりの文章だが、ここに書かれていることは別に間違っているように思えない。しかし、このあと、「日本神話」の話が何ページと続く。そして仁徳天皇の墓がピラミッドや秦の始皇帝の墓よりも大きいといった「自慢話」を延々と聞かされることになる。

「ギリシャの初期美術に相当すると言ってよい」「イタリアの大彫刻家ドナテルロやミケランジェロに匹敵するほど」「17世紀ヨーロッパのバロック美術にも匹敵する表現力」「日本の科学は西洋諸国にくらべても、当時すでに高い水準に達していた」と、何からなにまで西洋との比較である。

毎日新聞の記者が、「西洋コンプレックスの隠れ蓑として愛国心を持ち出すのはいただけない。日本にもっと自信を持ってもいいのではないだろうか」と書いているのももっともである。

 しかし一番の問題点は、これは「歴史」のではなく「歴史もどき」の教科書だということだろう。著者は「歴史を自由な、とらわれのない目で眺め」と書いているが、「自由」ということの厳しさがわかっていない。神話を利用して、それを事実のように印象つけ、自己流のあやしげな物語をでっちあげ、それを勝手に「歴史」だと主張されてはかなわない。

 夕食を挟んで、勉強会は夜も続き、そこでは私は「数学と民主主義」というテーマで話をした。学問的真理はあくまで「論証」と「実証」によって支えられていなければならないこと、そして神話の世界を離れて、はじめて物事を論理的に眺めることを始めたのはギリシャ人であり、それが可能になったのは、彼らが民主的な社会を営んでいたためだということ。

 少し難しい話だったと思うが、「新しい歴史教科書」の問題と関連させて話をしたことで、参加者にはよくわかってもらえ、最後は参加者全員からあたたかい拍手をもらった。学校での授業ではなかなか味わえない、充実したひとときであった。


橋本裕 |MAILHomePage

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