橋本裕の日記
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2001年07月21日(土) 豊かな共生社会を目指して

 小泉首相の言う「痛みを伴う構造改革」というのが、いったいどういう痛みなのか、スローガンばかりで、具体性がないだけに、何か不気味である。方向としては、市場原理優先のアメリカ型競争社会を目指しているのだろう。

 そうすると、自由な競争の美名のもとに、弱肉強食や弱者切り捨てのリストラが横行し、所得格差は拡大し、一部の富めるものによる経済支配、政治支配がすすむことになる。持てるものと持たざる者へと社会的富の分極化がすすみ、いわゆる「中間階級の没落」が懸念される。

 しかし、競争によって、社会が活性化し、進歩するというのは本当だろうか。こうした弱肉強食のダーウイン主義がどういう結果をもたらしたか、その悲惨な例が20世紀の帝国主義戦争である。国内的にはモラルの退廃や、犯罪の増加が考えられる。歴史は繰り返すと言うが、「繰り返されるのは歴史ではなく、歴史を忘れた人間の愚行」である。

 そうした愚行を繰り返さないために、私は「競争社会から共生社会へ」というパラダイムの転換を提案したい。来るべき21世紀型社会は20世紀的な競争社会ではなく、人間重視の共生社会であるべきである。そして、そうした社会へと扉を開く最初のステップが「ワークシェアリング」であり、それは「痛みを伴わない理想的な構造改革」を進める王道でもある。

 不況下における少ない仕事をみんなで分かち合うのが「ワークシェアリング」である。失業率が20パーセントなら、労働者が20パーセントずつ仕事を減らせばよい。その分、給料は減るが、自由時間は増える。そして、日本のように貯蓄が進んだ先進国では、自由時間の増大は、むしろサービス・社会福祉型の産業を活性化する。

 こうした生活重視のサービス型産業を中心に、内需の増大が生じ、その結果、就業人口が増加し、経済構造の変動が生じるにつれて労働人口の移動が生じるだろう。そうすると再び労働時間の増大が見込まれるが、ここで「賃金優先」の過剰労働状態に戻っては意味がない。

 この段階でむしろ流通や建設、金融といった古い産業の解体や合理化をすすめればよい。そうすれば、「痛みや混乱、出血を伴わない構造改革」がスムーズに実現する。つまり、最初に合理化ありではなく、新しい需要の喚起を優先させて、ワークシェアリングである程度産業構造の転換を促した上で、おもむろに旧来産業の合理化・効率化をはかるのである。小泉首相に是非こうした知恵と夢のある改革を進言したい。

 小泉首相の「聖域なき構造改革」に欠けているのは政策の具体性ばかりではなく、「21世紀型共生社会の実現」という理念そのものである。弱肉強食の競争原理に支えられた改革はいかにも勇ましく、歯切れがよいが、社会の不安定化と荒廃を生み、国際関係の緊張、ひいてはファシズムの台頭という事態さえ招来しかねない。

 こうした事態を避けるために、日本のような成熟した社会がなすべきことは、共生原理に立脚した文化的で豊かな社会の実現を目指し、物質的欲望の追求から、精神的充足へと社会的価値観やシステムの転換をはかるべきである。「儲けること」ばかりでなく、人生を「楽しむこと」に人生の目標を変えること、それはとりもなおさず、「競争社会」から「共生社会」へと目を向けることである。

 賃金と自由時間とどちらをとるか、あくせく働くばかりが人生でない。これまでの日本は「経済優先」で走ってきたが、質の高い文化的生活を実現するためにも、世界の環境問題を解決するためにも、こうした金銭中心の価値観を変えて行く必要がある。そうして、産業・経済体制そのものを、福祉・環境型へ「構造改革」して行かなければならない。

 豊かな精神文化の伝統を持ち、かつ経済的繁栄の頂点を極めた日本は、「ゆたかな共生型社会」の実現にむけて、世界史的にもその先陣を切ることのできる幸運な立場にいる。その理想社会の実現の第一歩を「ワークシェアリング」によって、力強く踏み出したいものだ。

 そのために必要なのは、こうした「共生」という豊かで美しい理想を共有する人々の輪を少しでも広げていくことだろう。私はいま多くの日本人の心の底にあるのが、「共生社会」への切なる願いではないかと思っている。この希求に力強く応えることのできる、豊かな理念と意志をもった政治家の登場が切に望まれる。

(今日から1泊2日で山梨県へ「志談塾」の仲間たちと旅行に行きます。あしたの日記の更新は少し遅い時間になりそうです)


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