橋本裕の日記
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中国へ観光旅行に行った大学生が、「おまえたちは昔中国にひどいことをした」と言って、非難されることがある。そのとき、「祖父たちが犯した戦争の責任を、そのころ生まれていない私にとれといわれても困る。僕は何も悪いことはしていない」と言い返して、さらに先方の怒りに油を注ぐことがあるようだ。
たしかに、戦争に参加していない人間に、彼の先祖の行った残虐行為の責任をとれといわれても困る。はっきり言って、私たちは自分の先祖が行った行為について、個人的に責任をとることはできないし、また取る必要もないのだろう。
それにも関わらず、責任をとれと言ってくるのは、彼らが「日本人は戦争中にひどいことをした。日本人は悪い奴だ。そしてお前は日本人だ。だからお前は悪い奴だ。さあ、謝れ」という、前近代的な「集団の論理」でものを考えているせいである。
「集団の論理」にあっては、全体と部分が一致している。集団は個人であり、個人は集団である。個人の罪は集団の罪になり、集団の罪は個人の罪になる。戦争中の隣組や、兵隊の班を考えてみればよい。
あるいは敗戦のとき言われた、「一億総懺悔」がそうである。個人が確立されない前近代的な社会ではこうした「集団的論理」が「論理」の代理物としてまかりとおる。もちろんこれは、正確には「論理」と言える代物ではない。あきらかに非論理である。
こうした個人を集団のなかに包摂し、集団としてのアイデンティティを重視する傾向は、「あたらしい日本の教科書を考える会」のメンバーの思考の特質でもある。「日本人は優秀だった。私は日本人だ。だから私は優秀だ。優秀な先祖をもったことに、もっと誇りを持とう」というわけだ。
こうした「前近代的集団主義論理」から脱却しないかぎり、これからも不毛な摩擦が続くだろう。全体主義の「論理」に対しては、個人主義の論理で、次のようにしっかりたちむかうべきだ。
「私たちの先祖が犯した誤りを、私たちは責任を負うことは出来ない。なぜなら、それは私自身が犯したあやまりではないからだ。しかし、私は自分たちの先祖が犯した誤りを、事実としてみとめよう。そして、それがどんなにあなた達の祖父母たちやあなた達を現在も苦しめ、悲惨な人生を強いることになっているか、理解しているし、またもっと理解したいと思っている。なぜなら、私はこのような過ちを二度と繰り返してはならないと肝に銘じているからだ」
「なるほど、私たちの先祖は悪いこともしたが、よいこともたくさんした。先祖の行為を一概にいいとか悪とか決めつけることは出来ない。私たちはその両方から学び、未来へと希望を持って歩んでいく必要がある」
「日本という国を愛することは自然な感情だが、ことさら優秀な民族だとか、その伝統に誇りを持つべきだと強調するのは馬鹿げている。誇りなどと言う集団主義の考え方に埋没するのではなく、個人に立脚した独立自尊の精神を大切にしたい。自分を尊ぶことから他者を尊ぶことにつなげていきたい」
論理とは本来個人的なものである。しかし、論理は個人を他者に結びつけるかけ橋でもある。私たちはお互いの相互理解と友情のために、自己埋没的な集団志向の思考習慣を棄てて、より普遍的で世界に通用する論理力を身につけていく必要がある。
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