2001年08月05日(日) |
ポケモン映画と夏休み |
去年のように劇場に並ぶ気力はなかったので、 公共施設に回ってきたのを見ました(空いてるのと、 交通費とか余分なお金を使わないのが取り柄)。
ネタバレはしませんが、最後の山場?で(更にその少し前のシーンでも) またもや劇場版アンパンマン「ゆうれい船をやっつけろ!」を思い出してしまったけれど 黙っていたら、 コドモの方から「アンパンマンの、あのお話に似てたね」と突っ込んできました。 そうね、君はあのビデオがとくに好きで、去年は繰り返し見てたものねえ… (そっくりだったよね)。
ユキナリ少年の将来をとくに考えてなかったけど、 エンディングを見ていて笑ってしまいました。 直前に「ジュブナイル」のビデオを見てしまっていたこともあって、また既視感が… でもタイムスリップねたを使うと、知ってる人のところに戻ってくる話にはなりがちだよね。 気にしてません。
・ちと脱線。 夏休みの物語というと、特別なところへ出かけていって、特別な体験をして、 また遠く離れてしまう人との友情とか恋が切なく(あ、大人の話でも同じか)。 日常の身の回りを見ても、本とか作品の形になったものを見ても、 「夏」とか「夏休み」って、めいっぱい生きなきゃ!参加しなきゃ!みたいな 一種のお祭り扱いになっていて、それは生き物としても自然ななりゆきなんだろうけど プレッシャーも感じませんか。なにか思い出つくらないといけないような(笑)。
祭りをいっしょに楽しんだ友達と、別れて帰るときの寂しさ。 時の壁に隔てられたところへ帰るときは(フィクション限定だけど)なぜ切ないんでしょうね。 空間的に遠いところへ行く人にも、また会えるかわからないのに、こっちはあまり切なくない。 やっぱり時空を共有していて、連絡がとれるという場合とは、随分気持ちが違うのね (不便な時代の人だったら、遠い土地へ旅立つだけでも、ものすごく切なかっただろうけど)。 人間がタイムスリップできないのは、記憶をよりどころに生きてるからかもしれない。 歴史とか、経験とか、なにかを覚えること・知ることを 意識しないでいられる生き物たちは、実はタイムスリップなんて平気でしてるのかも しれないなぁ(してても全然意識してないから)。
・脱線おわり。 絵的に好きなシーンはやはり、最初のセレビィが森の中を飛び回るシーンかな? 「スターウォーズ/帝国の逆襲」の好きなシーンと同じですね(笑)。 あと、湖面を飛ぶところ (アクロバットの飛行機みたいに、手を水面につっこんだまま飛ぶ水をけたてて) あれって空を飛べたら絶対やってみたいことの一つだと私は思うんだけどな。 高いところを飛ぶのの次に、夏だったら絶対やりたい! 涼しそうだし…。 (ジェットスキーとか、大きな道具に頼るんじゃなくて、 身一つで飛べるってのはやはり、すごい憧れだよね) コドモはすごーくすごーく憧れると思うんだけど。 ああいうふうにサトシだけが楽しそうに(空まで飛ばせてもらって)遊んでるシーンで、 カスミとタケシは羨ましがりもせずにニコニコして見守っているだけなんだよね。 彼らはコドモじゃないのかしら? 今更だけど、お父さんお母さんの代わりなのだろうか? お子様向けアニメの中で、本当にコドモ特権使ってるのは、主人公とか ごく限られた人だけなのかもしれない。そうだよね。 本当のコドモは観客席にいるはずなんだものね。
このように常に、飛んでる虫とか鳥とか走ってる子犬の視点で流れる映像が 大好きなお子ちゃまの私ですが、そういえば アニメのオープニングで好きなのは、ポケモン劇場版一作目の 「ミュウツーの逆襲」です…海の上をどんどん走ってってぶつかった 巨大迷路みたいな島を俯瞰するとタイトルになるやつ。 オーソドックスだけど、やっぱり素敵だった。これは劇場で見てないのが惜しまれます。
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