この日記のRSSは下記のURLになります。
http://www.enpitu.ne.jp/tool/rdf.cgi?id=6723

2003年01月18日(土) 連載第3回 

実を言うと、「考える人」を読み込んでいないがために紹介できる段階に至らず、
時間を稼いでだらだらしていました。

もう完璧主義を目指しても仕方がないので
現段階で自分が思ったことだけかくことにします。

第3回
考える人(新潮社)
1400円
季刊(年四回発売)

"Plain Living, High Thinking シンプルな暮らし、自分の頭で考える力"
イギリスのロマン派詩人、ワーズワスの言葉をコンセプトして
昨年の五月に創刊された。

売れているという。

9.11のテロが起こった時に
まわりの人たちが「やっぱりアメリカはやられたね」
と言っているのを聞いて、
私は何のことだか全く分からなかった。

あれだけ大きなビルに飛行機が激突するまで
私は世界の複雑な絡み合いや不平等に何も気がつかず、のうのうと暮らしていたのだ。

あの時だ、もう可愛いとか可愛くないとかどうでもいいから
自分の頭で考えられるようなりたい、
自分の中に何か一本芯が欲しいと
心底思ったのは。



今年の1月4日に発売された最新号は、
映画監督、伊丹十三のエッセイを特集していた。

「私は役に立つことをいろいろと知っている。
そうしてその役に立つことを普及もしている。
がしかし、これらはすべて人から教わったことばかりだ。
私自身はーーほとんど全く無内容な、空っぽの容れ物に過ぎない。」
(中略)
伊丹十三がひたすら本を読み続け、人の話を聞き、学び続けたのは、
このような自己認識に駆り立てられてのことだったのかもしれない。
(「考える人」創刊3号より)

伊丹十三が無内容であったとは思えないが、
空っぽの容れ物だからこそ出来ることというのを
考えていきたいと私は思う。
こんなことをここで言っても仕方がないけれど
私はむしろ「容れ物としてやっていく自分」さえ肯定できていない。

外枠だけというのはあまりにも受動的ではないか?
容れ物自体の魅力は、一体どこにあるのだろうか?
そう悩んでいくと、伊丹十三の開き直りにみえる態度が
いかに難しいことであったかを思い知らされる。

「考える人」はそういう意味で、
明確な意志を持った容れ物である。
理想的な形である。

豪華な執筆陣が人気の理由であることは間違いないけれど
自分の頭で考えよう、という一点をいつも読者に呼びかけてくる。
その軸がぶれることがない。

シンプルでいることは、非常に難しいといつも書いてきた。
悩んだ末に「動物のように生きたい」そういう人がまわりに増えた。

ぐちゃぐちゃと理屈をこね回し続けることは
非常に面倒で、
大した生産性がなかったとしても。
それを言うこと自体が
生産性を前提にした文脈であり、シンプルからかけ離れたところにあるとしても。

relaxを読んでカフェを巡り
毎日を丁寧に暮らす生活からもう一歩先へ。
行けたらいいなあ、でもなかなか難しいなあと思いながら
「おまえの言っていることは分からない」のだめ出しにも負けず
今日も「考える人」を鞄に入れて出かける私なのであった。

(もう一度書き直します)


 < 過去  INDEX  未来 >


バナナカレーログ [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加