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2002年06月15日(土) |
チュニジアにあった別の国 |
サッカーのチュニジア・日本戦を見ていて、思った。
かって.カルタゴ(814B.C.〜)という歴史に名を残すほどの国があった。
場所は今のチュニジアの首都、チュニスの北東にあった。 今のチュニジアとは直接関係はない。カルタゴはローマ帝国に完全に滅ぼされたからだ。 フェニキア(「フェニキア」とは、元来は暗赤色あるいは紫がかった褐色を意味する語であるギリシャ語の「phoenix」に由来)の民は滅ぼされてしまった。 カルタゴは、栄耀栄華を極め、武勇(傭兵制を創設)に優れ、海洋通商国家として栄え、文化爛熟、今でも、円形の伝説的な港、商港と軍港の跡は遺跡で残っている。 シチリアをめぐって、ローマとカルタゴは戦争を始める(ハンニバル率いる第二次ポエニ戦争)、そうして大敗する。そこからが問題なのだ。
その時、ローマ帝国がカルタゴに突きつけた、降伏文章は次の七項目から成っている。
一、完全武装解除=商船を除いて全船隊をローマに引き渡す。
二、本国以外の全ての領土を放棄する。
三、カルタゴの安全はローマが保障する。
四、但しカルタゴに駐留するローマ軍の給与・食料等の費用はカルタゴが支出する。
五、脱走兵・捕虜等をローマに引き渡す。
六、賠償金、一万タレントをローマに支弁すること。
七、14歳以上の男子百人を人貫としてローマに送ること。
以上、カルタゴを日本に、ローマをアメリカに置き換えてみよ。
これは、敗戦国日本がアメリカに突きつけられた、降伏条件(日米安保を含む)と全くよく似ている。六番目、日本の場合賠償金は、当時の金で七十五億円、七番目は「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争の罪悪感を日本人の心に植え付けるための情報宣伝計画)」を徹底するため、二年半にわたって極東軍事裁判を開廷し、そして日本の指導者二十五人を断罪(うち七名を処刑)して、さらに戦争協力者と称して実に二十一万人を公職から追放した、事に置き変えるといい。
で、後、カルタゴはローマ帝国に完全依存、かって英雄ハンニバルを生んだカルタゴ民族は、もともと聡明で勤勉な民族で武勇にもすぐれていたが、しかし、軍備と交戦権を失った彼らは、もっぱら貿易と金儲けに走った。当時カルタゴは、地中海のみならず、アフリカの海岸まで手を延ばし、世界最大の貿易国にまで成長した。文化面では、食道楽のようなものが流行り、観劇・ファッションなども、巷あふれた。
そうして、いつのに間にか独立国家としての気概も、自尊自立の民族精神も失い、金儲けにうつつを抜かし、金で済むならそれで済ましてしまおうという風潮を生みだす。祖国防衛の意志さえ失ってしまった。経済繁栄に酔い痴れて、驕慢になったカルタゴに対して、ローマは三たび戦争を仕掛けた。
シーレーンをおさえ、港湾を封鎖した(第三次ポェニ戦争(前一四八:一四六))。この戦争によってカルタゴは職滅(せんめつ)させられる。カルタゴ民族はこの地上から消滅して、再び蘇生することはなかった。永久に滅んでしまった。そうして、そのあと、今のチュニジア国が建国される。つながりはなにもない。
いまの日本の風潮が、あまりにも二千年前のカルタゴの姿に似ていると思わないか?
参考文献:田中正明「歴史思想講座第一集」 :森本哲郎 『ある通商国家の滅亡』 PHP研究所
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