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いつも病院の帰りは、丸太町通りから梶井基次郎(作家。明治34年〜昭和7年31歳没)が歩いた散歩道を歩いて、寺町を下がっていくことにしている。寺町丸太町から二条通の交差する所までの町並みが好きで、良く歩く。梶井基次郎が書いた「檸檬」を売っている果物屋は現在の寺町二条の角にあるそれとは違う店だが、それはともかく、角には、ブラスリー・ブションがあって、それが目当てで散歩道にしている。梶井の足跡を辿る文学散歩とはほど遠い。
病院に行くと、院内感染が怖い。常々セルフデイフェンス(自己防衛)座右の銘としているので、これはもう自分でちゃんとしなければいけない。どうするか。そうだ、身体をアルコール消毒すればいいという事で、医者に行った後は、必ず飲む!(なんかちょっと違うような気がするが…)
その日も、軒を連ねて並ぶ和紙屋・古書店・茶舗などを見ながら歩道を歩いていた。ちょっと先の歩道の真ん中で中学生くらいの女の子達が、自転車を支えたまま、もぞもぞして、立ち往生している。近くまで行って事情がわかった。一人の女の子のふわっとした丈の長いスカートが後車輪に巻き込まれていた。見ていると、いたずらに引っ張ってますます食い込んでいく。見かねて、ちょっと見せて見ろといって、ハンドルをもう一人の女の子に支えさせ、そうしておいて、後輪を持ち上げ、逆方向に車輪をまわしたら、存外簡単にスカートの端ははずれた。
よかったねと二人の顔を見た。もう、頭の事はいわない。例の色である。それはいい。しばらく目を見たが何もない。問題が解決してしまえば、こちらも用はない。それじゃねとその場を去って、また、二条通りに向かって歩き出した。 やがて、先ほどの二人が自転車で後方から追い越して行った。 その際も、何もなかった。何がなかったかというと、人にしてもらった親切に対して、当然自然に出てくる感謝の言葉「有り難う」がなかった。まったく全然、おくびにもにも出さなかった、二人とも。自転車で後ろから追い越すときも何もなかったように走り去った…。
前にも書いたように思うけれど、最近一部思想的に偏った教師達が、給食の際の「いただきます!」や、人へ挨拶をしろと教える事が強制にあたるという、とんでもない解釈で、子供達にそう言うことを教えていないと言う。先の子供達はあわれな犠牲者だろうか?どうするのだろうか?社会に出て。教えている教師は、目上の先輩教師や教頭校長に挨拶しないのだろうか?
学校で教える前に、親はどうしているのだろうか? 何でもそうだが、「礼に始まり、礼に終わる」のである。なんで?という疑問に答える必要はない。昔から決まっていることだからである。
「学級崩壊」とか「学力低下」とか言われているが、勉強できなくても、少々やんちゃでも、最低の礼儀は昔の子供達はもっていた。はにかみながらも挨拶はした。極道の世界でもそんなことは常識である。
戦前の日本には、古今東西の偉人の伝記などを教えた「修身」という教科があった。敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)によって禁止され、昭和三十三年、「道徳」が設けられた。 が、日教組(日本教職員組合)などの反対(上に書いたような理由も含め)で、形骸化した。
子を持つ親は子供達のために「嵐の中の灯台」(小柳陽太郎・石井公一郎 監修 明成社)を読んで聞かせてやってくれ。
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