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2001年09月18日(火) 酸橘と2002年サッカーW杯



 鳴門の事でもう一つ。家族同様に思っている親しい友人一家から沢山のすだち・芋などが届いた。さっそく礼状を書いてといっても、Eメールだからクリックした瞬間もう相手に届いている。便利といえば便利だけど、これでは郵便屋はもうすぐすると仕事がなくなるかも知れない。
 送られて来た箱の中に徳島新聞が入っていた。一通り目を通していると「ドイツ2002年W杯のキャンプ地に鳴門市最有力候補」とあった。

この記事を見た瞬間、「ああ、ドイツ人は鳴門の事忘れていないんだ」と思った。
現在は鳴門市になっている、板東という所に、第一次大戦の時に捕虜収容所が出来た。そしてここにドイツ人千人近くが入れられた。収容所長の松江豊寿陸軍大佐は、「勝てば官軍」に敗れた会津藩士の出である。敗者の悲哀、弱者の苦しさをよく分かっていた。

そういうこともあって、地域の中で、自由な活動を許した。地域住民達も彼らからヨーロッパ文化や、工業・医学の知識を得ようと、彼らに敬意をを持って接した。その結果、パン屋あり、ソーセージ屋ありの小さなドイツ人街が出来た。
 1918年6月1日、ここのドイツ軍楽隊によって、日本で初めてベートーベン第九交響曲が演奏され、第四楽章「歓喜の歌」が日独両国民、合い和して歌われた。日本人が東京で正式に演奏したのはそれから6年後となる。
国際法を忠実に守り、捕虜を寛大に人道的に扱う日本は、当時ヨーロッパ諸国から高く称賛されて、感謝状までもらっている。
そういう事をドイツ人はしっかり覚えているのだろう。深く知らない人は捕虜になった地でキャンプなんて、ドイツ人はいやじゃないかと思ってしまうだろうが、上に書いたように素晴らしい扱いをしていて、当時のドイツ人の心に深く残っているのだ。
捕虜でも文化的な誤解で虐待されたという英国人がいる。聞けば木の根っ子を食べさせられたという。調べてみると、日本人が当たり前に食っているゴボウだったりするわけだ。(ゴボウはフランス人も食べる)。当時まったく文化に干渉せずに自治に任せた事が本当によかった。
 今からすだちを輪切りに紅茶にいれて飲もうとおもう。檸檬のようにきんきんしない上等の味になる。感謝。













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