-
★2007年10月25日(木)
『花の名』 BUMP OF CHICKEN
最初のとまどいは幼馴染みの女の子が中学に上がって えー…少し大人になったら、その小さい頃から呼んでる呼称が 今もここに書けないようなエロい言葉と同じだと知り、 本人が、もうその言い方は辞めてくれと言い出した時だった。
確かにそれは、多感な女子中学生は意味を知ったら口にはできない。 でもしばらくは言いかけて、えーとなんて呼べばいいんだろう? という状況に戸惑った。だいたい私は、名前そのものを呼び捨てに されるのが好きじゃないから、するのもあんまり得意じゃないのだ。 それを本人が望んだとしても。
だから基本的には通称か、くんさんちゃんを付けてしまいます。 サルしてる時とかは呼び捨てちゃったりもするんだけどね…。
文学好きで少女趣味な人間にとって、本当の名前というのはとてもとても ものすごーく特別なものなので、容易く口にしてはならないものなのだ。 それは魔を除けるため必要だったり、魔法の呪文だったりするのですよ。
そんなワケで(?)私の名前を呼んでいいひとは、私の中では今や お父さんだけなんですよ。過去にはまぁ名前で呼んでいたひともいます。 どんなに嫌がってもそう呼び続けるんだもの。結果的に相応の愛情を 注ぎ続けてくれたので気が付いたらそう呼ばれるのが嫌じゃなくなってた。
が、拒み続けたひともいます。そのひとは私の特別なひとりには成り得ない と最初から知っていたり、まだそこまで親しくないと感じていたり… まぁなんてゆーか、永遠を信じられるくらいじゃないとやなんだもの。
それでもしつこく呼び続けられると、えー…嫌じゃなくなって来た頃に、 信じちゃおっかなーなんて思い始める頃に、恋は終わります。
…。
こうなるとますます名前で呼んでもいいと思えるまでの時間が長引くな。 ま、親しみを込めて「きらら」と呼ばれるのがとても好きだからいいの。
そんなかんなで、私は何故かとても親しいひとに対して、 女子なら「お嬢(ちゃん)」男子なら「にー(ちゃん)」などと 呼んでしまったりします。私にとっては呼びやすい代名詞なんだろうな。 時期によってお嬢やにぃは対象が違うんですが、それぞれ3人いますw
早い段階で呼称が定着してくれるといいんだけど、 最初は距離があって徐々に親しくなると、 なんて呼んだらいいかわからなくなっちゃう感じ? なんか気が付いたら、お嬢とかにーちゃんとか言ってる。
2度目の戸惑いは、このおにーちゃんと呼ばれるのが嫌だとハッキリ 伝えられた時。この辺は私は潔いのであらイヤなんだと驚きつつ (今考えると驚くことではなくむしろ当然と思うのだけど、 2代目のにーちゃんが、にぃって呼ばれるのが気に入ってたりしたので この時はイヤなひともいるのねって驚いたのよ。
ちなみに初代にーちゃんは幼馴染みで、最初は普通に呼んでたんだけど たまり場みたいによく遊びにいく家で、そこんちの弟を「弟」と 呼んでいたら気付いたら兄はにーちゃんになっていたのだ)
でも、彼についてはその前から呼んでた呼称が別に堅苦しくも 長くもなかったので、無事そのまま普通に定着。めでたしめでたし。
問題はここからですね。
私、人見知りですが好きなひと気に入ったひとにはすぐ懐きます。 大抵の場合は呼び方も特に苦もなく、すんなり周りと同じだったり 勝手な呼び方しちゃったりで、えーすぐに親しい呼び方になって しまった時、そしてそれからもっと親しくなった時に、 それはそれは困りました。私の価値観ではその呼び方じゃ恋はできない、 そういう呼称だったのね。うん、わりとあだ名って困るよね。
だってこう、いいムードの時に、例えばヒトの旦那を使ってしまうけど 相手を「さかな」(はーとまーく)とか「小鹿」(はーとまーく)とは 呼べないじゃないですか。しかも私は結構好きなひとのことは 親しみを込めて呼びたいんですよ!でもねーきれいな夜景なんかみながら 初めてキスしますよーてな場面で、「チキンさん」(はーとまーく) とはやっぱりなんか違うんじゃないかと思ってしまうんですよ。
ちなみに「ひげ」なんかもやっぱり恋はできないんじゃないかと。ええ。
※例に出した皆さますみません。
その上で名前を呼び捨てにするのが苦手だと、これが割と本当に困るのね。 だって、「さかな」とか「ひげ」とか呼ぶ親しさで、 今さら○○さんとか言えないしさー。 にーちゃんとかも嫌がられるみたいだしさー。
まぁそれでもね、まだそんな風に定着した呼び方があった場合は 親しい距離からちょっと離れた時には戻る場所があったりする。
更にその次は、特に呼び方が定着していないのに親しくなった場合。 もーこうなるとどんな呼び方も、ない(苦笑)
○○さん(名字)と言った期間もほぼなく、親しくなってからも なんかこうしっくり来る呼び方がない。かろうじて△△くん(名前) と呼んではいたものの、なんかどうもしっくりしてなかった。 だって、呼び捨てしていい関係じゃなかったんだもん。 本人がそれを望んでも、私の中では。
そしてですね、今度はそこからまた距離ができた時、 私は本当にそのひとをなんて呼んだらいいのかわからなかったのだ。
私の中での呼称もないことはないのだけど、それもなんだし 戻る場所に戻るのはよそよそしくてものすごーく不自然だと思うし。 さかなやひげなら、さかなやひげに戻れるんだろうけどなー。 (※しつこく例にしてすんません。)
そうして私は、目の前にいるひとに話掛けられませんでした。
まぁ手が届くくらいの距離なら多分それでも話し掛けたんだけど 少し距離もあったしね。(手が届けば、名前呼ばなくていいしね)
多分、交差点でのあの距離感が、まさに関係性の距離感なんだなーと 感じました。近いのにとっても遠い。 そこにいるのに、いつもとっても遠かった。
そして、私には追い付かない速度でどんどん遠ざかる。
(中略)
まぁそれはもういいんだけどさ。
それでも、なんか嫌だなーこういうの。
目の前にいたのに、呼称にとまどったり目に見えないバリアを感じて 話し掛けられなかったって。私らしくない。
しかしやっぱり、彼といた時間は私らしくないことの連続だったので こう不自然になるのが、自然なのかも知れませんね。
呼称なんかどうでもよくて、私だけに聴こえる唄があると、 そう感じていた瞬間もあったのに。 どうしてこう、何かと疲れたり悲しくなってしまうのだろう。
「自分の言葉や行動で私があまりにも傷付くので腫物に触るようだった」 前にそんなようなことを言われたことがあったな。
でも私は、そんなわかりにくい人間じゃないはずなのさ。
それは後先考えず始めてしまったのに、私との関係より他の関係性の方を 優先したり比重を置いたりするから、バランスが取れないってだけ。 とっても当たり前の話。私の愛情過多気質とは本来相容れないもので、 重なりあうハズのない距離をがんばって縮めちゃった結果。
例えば単純に、あのままいつも一緒にいれたら、全然違ったと思うもの。 私だけに歌える唄は、そばにいないと聴こえない性質のものだし。
でも、そんな唄より譲れないものや守りたいものがあったっていうこと。 会いたいひとは、私じゃなかったっていうこと。 そしてそれは私の中で、私にはなんの価値もないってことに繋がる。 自分は要らない人間だって呪縛にまたもや繋がっていく。
ほんと私ってつまらんなー。 どうにかなんないかなー。
コレと、不当とか不正とかに過剰反応する部分さえ取り除ければ ほんっと日々穏やかにお気楽に朗らかに生きていけるのになー。 今日も友達にしなくてもいいケンカはしなくてもって言われたな…。
そしてまた今日も「まーでも、これが私だし」なんて自己完結で まとめるしかない話になって、とっぷり夜は更けていくのでした。
不毛だなぁ…(^_^;)
おやすみ。
|