話を聞いてくれてありがとう - 2012年10月26日(金) さて、もったいなくもかしこくも本日は取材していただいたお話。 この日、鶴橋駅にて社納葉子さんと待ち合わせて、拙著「外国人市民がもたらす異文化間リテラシー」ができるまでのお話を2時間ほどみっちり聞いてもらう。 大人になると「わたし」について話を聞いてもらう機会というのは限られる。今回も記事にする目的があっての席なわけだが、話を聞いてもらうというのは、自分もわかってなかった自分のことが見えてくる機会でもあるのだなとしみじみと実感した。 関西に移住して、研究に取り組み、そして、なぜ私は長田のニューカマーの子どもたちのもとへ通うようになったのか。 何にこだわってどうしてそこだったのか。そしてかれらは何でこんな下心ありげなおばちゃんを受け入れてくれたのか。 社納さんがかなりしつこく、繰り返し問いかけてくれた中で自分でも見えていなかった私をあの場に駆り立てた動機が見えてきた。 それは、あのころの、関西へ移住したての頃のわたしの「居場所のなさ」と「さみしさ」だ。 まあ当時もネット的には盛り上がっていたけれど、現実社会での居場所を切実に求めていたあの頃、研究といいつつ外国人の子どもたちの居場所に足を運び、若い大学生と喧嘩したり笑ったりして、「来週も来いよ」とあの子に言ってもらい、私は間違いなくあの場でまがりなりにもメンバーシップをもらい、癒されてたんだな、とクリアに気付いた。ボランティアは与えているつもりで自己効力感というものすごいものを与えてもらっている(あ、本でもそう書いたか)。 その上論文は書くは本は書くはもらってばかりの人生なわけだ。 でも、聞いたからには、私なりの声で伝えよう。君から聞いた言葉を。君が奮闘してた日々を。共感を持って声を聴き、ニューカマーじゃなくて名前のある一人の人間としてあの町でがんばってたあの時の君たちとあの場所の輝きをちゃんと向こう側から、ただ眺めている人にも分かってもらいたい。そういう10年間だったんだな、と思う で、今回わたしも社納さんに共感を持って対話してもらって自分の中のいろんな気持ちを言語化して認識することができました。きいてくれてありがとう。記事はこちらで読めます。 ...
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