西方見聞録...マルコ

 

 

そこで計れない価値 - 2010年05月29日(土)

 さて、前日記で子どもの成績が平均点だからまあ良いや、みたいな日記を書いたんであるが、今回中学生の中間テストの問題文をちら見して、その問題の指示の煩雑さに国語だけでなく、数学も、英語も、理社も「日本語読解能力」が要求されることに改めて気付く。

 日本語が母語で、家庭言語も日本語なうちの子どもにとっては大きな努力をしなくても「平均点」をとることはそれほどハードルの高い行為ではない。そういう結果に触れると、大きな努力の末に平均点に至れない、外国語(特に非英語圏)母語の子ども達のことが、やはり思い出された。


 そんなとき、古巣ボランティア先からこんなニュースが届く。

MCナム おれの歌」のMV配信スタート。

 是非聞いてみて。

 ベトナム難民2世のラッパー青年の歌なのだけど、前半の母から聞いたベトナム脱出の場面はもちろん、後半彼が日本の学校内で余儀なくされる「ベトナムアイデンティティの隠蔽」から、学校を脱出し、自らの「アイデンティティに覚醒」し歌い始めるくだりがとくに私には鮮烈に響いた。

 彼は学校の成績はあまりよくなかった。でも学校を脱出して初めて評価される「他人との異なり」を武器に自らを表現していく。ラッパーになった彼はベトナムに語学留学してベトナム語でもラップを作り、CDデビューも果たしていく。

 そして日本社会にベトナム難民2世の「背景の可視化」「個別を見る機会」という異文化理解のための大きな資源をもたらす存在になる。この彼の表現によって日本社会にもたらされる「資源」は日本を国際化社会、あるいは多文化共生社会に構築していくためにとても重要な資源だ。

 外国由来の子どもがみんなラッパーになれるわけではないが、彼らが持つ母語や母国文化との親和性は間違いなく彼らにとっても日本ホスト社会にとっても、資源であるのに、それを日本の学校では隠蔽させてしまうのはなぜだろう。

 中間テストでは決して計れない価値の存在を認識しつつ、それでも自分の子どものテストの成績の結果に一喜一憂する母親の矛盾も抱えながら、「他者との異なり」が「資源」、あるいは「武器」となる可能性が評価されることを願わずにはいられない。




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