西方見聞録...マルコ

 

 

卒業式の朝−感謝したいヒト列伝− - 2010年03月18日(木)

 さて、朝っぱらから虐待に関する日記なんて書いてた18日の朝、って言うか、17日の深夜のマルコだったが、その夜が明けて新しい1日を迎えるとその日は長女1号さんの小学校卒業式だった。

 そう、もう一発ゆすぶったくらいでは簡単に死なないくらいに1号さんはちゃんと大きくなれた(言っておくけどマルコは現実に1号さんに暴力振るったことはないよ。おKちゃんには頭はたいたりしたことあるけど。1号さんって激泣き新生児期を脱したら、喘息もちだったり引越ししたりとかいろいろ困難はあったけど基本的に繊細ないい子なのでそんなにシバく必要性はない。必要性のあるのは新生児期、超いい子だったおKさんのほうですな。人生塞翁が馬、禍福あざなえる縄の如し)。

 まあ、中学生ってのは聞くところによるとすごい大変らしいのだが(おKさんが中2になったときとか想像するだにぶるっちゃいます)、でもなんていうのかな、かなり「子ども期前半」は終わって、本人的には親なんてもう別個の存在で、自分が1番、友達2番3,4がなくて5に家族って感じで生活まわしてくんだろうな、と想像する。

 そんでまあ、親子の共依存関係が世間的に許されてた「子ども期前半」が1号さんに関してはどうも終了したらしい。(おKちゃんはまだ5年間、ちゅーしたりべたべたしたりしていいのだ。ちゅー)

 で、このめでたき、共依存関係の終了の今朝、お互い無事にその狂おしくも愛しく、そしてやばい時期を切り抜けられたことを寿ぎたい。オリンピック選手じゃないけどここまでわたしたちを支えてくれた周囲の皆様に感謝したい。

 誰に感謝をしたいかな。あめでおさんやエルザさんは第1義的に共に関わってた人なので、感謝って言うと何かおこがましいってか、水臭い。お互いお疲れ様でしたね、ってかんじ。ちょっと輪の外にいるけどすごいこの共依存期の危機を乗り越えるのを助けてくれた人というと、、

 まずはAちゃんかな。Aちゃんは保育園から現在まで一緒の1号さんの友人なんだけど、保育園で初めてAちゃんが対等の友として1号さんを受け入れてくれて、1号さんはこの地に着地できた。小学校に入って、あんまりノリが合わなくなってきて、今ではほとんどクチをきかないみたいだけど、でもあの幼かった君がオセロで負けて激泣きしながらも1号の友でいてくれたことに心から感謝してる。君が卒業証書授与された瞬間、たぶんちょっこり思い出の走馬灯がくるんと回って泣くと思う。君も大変な6年間だったと母上からきいた。しかし、義侠心の強い君のよさをおばちゃんは知ってる。知ってて黙ってここで感謝している。ありがとう。

 あと月並みですが6年生の担任の先生はすごく感謝している。1号の小学校はスーパー伝説の教師が何人かいて1,2年生のときの担任も「スゴ腕」だったけど、この6年担任もスゴかった。5年の終わりから6年の初めにかけて1号さんは友人関係で少し、母的にはかなり大変だったんだけど、担任の先生がその「大変だった」1号さんのもとにスーパーマンのように駆けつけて、ものすごく細かくいろいろフォローしながらいろんな仕事を1号サンに任せてくれて、校外のボランティア活動にもいっぱいアクセスさせてくれて1号さんは危機を脱し、そして成長した。1号さんが書いてる作文帳を夜中にチラ見したら「授業で私を指名しながら、先生がアイコンタクトでがんばれって語りかけてるくれているのがわかる。先生がくれた声にならないたくさんの『がんばれ』を宝物に小学校を卒業したい」と書いてあって、ちょっと泣けた。ありがとうございました。

 あとものすごく意外なところで、夭折してしまった従弟くんにもありがとう。とにかく前も書いたけど新生児期、大変な泣き赤子だった1号さんに私はもうホントに半分おかしくなってた。赤ちゃんは皆こんなにひどく泣くわけでなく、赤ちゃんによっては生まれてすぐでも数時間も連続して寝てくれて、ゆったり新生児期なんてのも世の中にはあるのだ。陣痛が始まる前にさっくり帝王切開で生まれたおKさんがいい例だ。これは親が2度目の育児で熟練したって言うのもあるかもしれないけど、子どもによってほんとに新生児期は違うらしい(だって稲田堤時代の近所の人も『上の子のときはいつも赤ちゃん泣いててすごく心配だったんだけど下の子の時は、ホントに赤ちゃん生まれたの?って感じに静かね』っていってたもん)。
 で、泣き赤子の1号さんがなんでそんなに泣き赤子か私はなんとなく分かってた。1号さんは怒って私を責めているのだ。3日間も陣痛間隔10分で、もう破水もしちゃって、でも生まれなくて、助産院から救急車で救急病院に搬送された。おなかの中で胎便がでちゃって、全身緑の胎便まみれで窒息しそうになりながら生まれてきた1号さんはそんな苦しみを与えた私を怒って責めているのだ。もうごめんなさいごめんなさいと思っているのに、でも鬼のような顔で泣く1号さんに私はホントに追い詰められてた。お乳をやるしか泣き止んでくれないので、乳の先が割れて血が出て、くわえられるたびに激痛が走っても、馬鹿みたいにお乳をくわえさせてやるしかなかった。しかも1号さんが生後4ヶ月になったら、私は東南アジア方面に2週間の出張に出ることになってて、こんなに乳をやるしか能がないのに、断乳を決行しなければならないのだ。
 
 もうホントにピンチだった。

 そんなとき、大人になってからはあんまり交流がなかった従弟君が突然手紙をくれた。そんで手紙と一緒に助産士雑誌の記事のコピーをくれたんだがそこには「難産で生まれた子はバーストラウマを癒すためによく泣く。でも泣くことでトラウマを癒しているので無理に泣きやめさせずに心いくまで泣かせてやると、ゆっくりと落ち着いてくる。抱っこして泣かせてあげるとよい。」と書いてあった。

 ホントにね、その記事を読んだときの目からコンタクトレンズ、それもワンデーアキュビューが一箱ごっそり落ちる位の勢いで、いろいろ合点が行った。1号さんは私を責めて泣いてるんじゃなかった。自分を癒すために泣いてるんだ。そう思うとそれまで私を鞭打っているように感じていた1号さんの泣き声も泣き顔も、まあ相変わらず、すごいって言えばすごいんだけど、とにかく受け入れられるようになった。そして東南アジアへの出張はインドネシアの暴動の影響で2週間から5日間に短縮されて、断乳もしなくてよくなった。あのとき、従弟くんが手紙をくれなかったら、1号さんと私の関係は今よりいろいろとこじれたものになってたと思う。ほんとにありがとう。心からありがとう。

 そういうわけでいろんな人に助けられて、なんとか1号さんの子ども期前半が終わろうとしています。



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