西方見聞録...マルコ

 

 

凧の行方 - 2010年02月20日(土)

 夜中に突然、「君のためなら千回でも」を観た。

 どこに行くかわからない、凧の行方を正確に見抜いて走っていった、少年ハッサンの残像がしばらく頭から離れなかった。

 1970年代の繁栄するカブールとタリバン支配下の同じ町の対比。タリバンの非道ではなく徹底的に個人間の葛藤としてドラマを展開させることで「悲惨なアフガン」ではなくてそこに生きる、あるいはそこから逃げ、悔恨し、生き直そうとする人々の物語が伝わってきた。

 主人公のパパがすごい多面的で魅力的で「アフガンの男」「アフガン難民」なんてステレオタイプをぶっ壊して個人として、俺の顔を見ろ!って感じで画面からはみ出してくる感じがよかった。

 登場人物が「アフガンの人々」である前に代替不可能なオダマコト的にいうと「非真正性レベル」での人間描写がされているように感じた。

 ところで今回すごく感じたのは難民として国を逃れた人が資本主義大国で表現者としての技術を得ることで祖国と映画消費者の二つの世界を結びつける「媒介力」を発揮する、ということだ。

 ちなみにこの媒介力って私のD論のキータームだったんですが、あえなく没になって「異文化間リテラシー」って既存タームに書き換えて論文通したんだっけかな〜 

 「その名にちなんで」や「テヘランでロリータを読む」なんてのもそうか、オリエントで生を受けた人が移民として難民として移動した先で獲得した表現の力で祖国をパワフルに語ることで生み出される感動。

 そういう「媒介力」が世界に与える影響を感知させる映画だった。

 原作、買って読もうと思った。


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