西方見聞録...マルコ

 

 

辛淑玉 野中広務「差別と日本人」と今の気持ち - 2009年09月11日(金)

 6月だったかな、かなり前に夫@あめでおが京都駅の本屋でこのを手にとって、ぱらぱら眺めるだけのつもりだったのに、読み始めたら止まらなくなってしまって、新幹線逃しそうだからあわてて買った、といいながら家に持って帰ってきました。野中広務氏に関しては名著「差別と権力」でその正史的な部分が描かれているんですが、こっちはもっと本人の実感に寄り添うような形で描かれていてその実感に人々が共感できるように工夫された著作と思いました。

 また辛淑玉氏の著書を読んだのはこれが初めてだったんですが、本人ご家族、皆、日本名で暮らしている中、辛氏が本名をカミングアウトして戦う人生に乗り出していったことが書かれていました。非常に、その戦いに関しても共感的理解が得やすいかたちで述べられた本だとおもいました。

 他のところでも書いたような気がするけど、この本の中でもっとも私がはっとしたのは、辛氏のパートナーの日本人男性が辛氏を愛しながら、しかし「何でそんなに戦ってばかりいるのだ」と「一緒に暮らすこと」に「疲れ」を表明して去って行く件(くだり)でした。

 辛氏のパートナー、きっとそれなりに骨も覚悟もある人だったのではないかとおもうのですが、彼が疲れてその場を去る場面と、しかし24時間その場を去ることができない辛氏が立ち尽くす姿に多くのことを考えました。

 1つは支援者と当事者の間の間にあるもののこと。

 支援者は活動の場にいるときだけ戦えばいいけど、そして家に帰れば1市民として休息できるけど、当事者は24時間当事者であることから逃げられないんだな、と。


 私はここ数年、外国人児童のアイデンティティ支援ということを考えて時々土曜日にNPOに行ってボランティアのようなことをさせてもらったりしていたのですが、でも家に帰れば、1マジョリティ家庭の妻のポジションに戻ってこどものピアノの稽古に付き合ったりするわけです。

 そしてさらにはそのボランティア体験を基にして博士論文も書きました。博士号が決まって、みんなにおめでとうといわれて、ありがとうと返すうちにやはり胸に去来するのは研究完成に協力してくれたベトナム人やブラジル人の中学生や高校生や小学生のことなのです。

 研究しているうちは、研究に協力してくれた人たちのためにも何が何でもこの論考を世に出そう、ともがいていました。
 でも研究が完成してみて、それを糧にさらに大きな声を出せるようになりたいと思うたびに、聡明でそれなりに努力をしながら、高校進学、大学進学で躓き、苦労しなければならない彼らのことが胸に去来します。私なりの苦労はもちろんありますが、この社会のマジョリティであるがゆえに彼らと比べて私の歩く道はどれだけ平坦なものかと、彼らのことを描いて研究成果を得る立場になって思い知るのです。 

 声を上げて、戦う当事者は社会矛盾の存在を周囲に知らしめるのですから、社会全体にとって、社会改革の機会を提供してくれる「リソース」です。その社会全体へのリソース提供者である「当事者」を孤立させない、彼らの戦いがマイノリティのためだけでなく社会を構成するすべての人にとって利益となるものだ、ということを支援者の立場からいかにわかりやすく周囲へと伝えていくことができるのか。

 当事者と支援者の間の埋めがたい溝を感じながらも「声を上げる当事者」の戦いを支援する市民でありたい、と強く思わせる1冊でした。

 
 

 


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