流れる日常 - 2009年05月08日(金) 学生時代や子ども時代、時間というのは私にとって「何かをなすべき」合間の連続で、無為にただ過ごしてしまうと「なんか悪いことしちゃったよ」と後ろめたくなっちゃうような存在だった。まあがっついてる子どもだったんですね、わたしってば。 で、子どもを産んでみて、私の時間感覚が少し変わった。それは何にも記憶にも記録にも残らない合間の連続である時間にもそれをやり過ごすことに何らかの意味がある、と思えるようになったことか。 一見無為に流れていくナニゴトもなされない時間の堆積も、子どもにとっては「できなかった」ことが「できる」ようになっていく時間だったり、しかられたことを、畜生!と思い返して、何がこんなに腹立たしいのか自省する時間だったり。ナニゴトもなされない時間の堆積にも何らかの意味というのは実はあったのだ、という、結構当たり前のことに子育て期の母親になってみてまざまざときづいたというか。 もしかして他の人は無為の時間の大事さなんて、とっくにきづいてて、がっついてる子どもだった私が特別その大事さに鈍感だったのかもしれないけど。 そんでそんな何かがなされているわけでないけど、記録にも記憶にも残らないけど、でも流れていく時間、というのをテーマにした現代美術展インシデンタルアフェイアーズ:うつろいゆく日常性の美学を観にいった。 実は前日の7日に観にいくつもりだったのだが、ちょっと予定より時間が押してしまったのでその日はあきらめて、この日8日、遠方職場からの長途の帰路、ちょっとくらい家に帰る時間が遅くなっても怒られまい、と通勤路から脇にずれて、この展覧会を観にいった。(金曜はあめでおさんが食事当番なので。あとおKさんの学童のお迎えはずいぶん前から1号さんの担当仕事になっていたので。) 私は実は現代美術は関西に来て板友さんの強力プッシュをいただくまで、ほとんど触れる機会がなかった。だから実はあんまりよくわからないのだけど。でもこの展示の一番最後で出合った「さわひらき」さんのお家の中を旅する小さな木馬の映像に、なるほど、と思った。過ぎていく日常のやわらかい暖かさ、何かをなすのではなくそこにただあることの大事さ、記憶にも記録にも残らないただやり過ごす時間の大切さそんなことが、ほのぼのと胸に迫った。 ...
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