命の格差 ナイロビの蜂を観て(3) - 2007年02月09日(金) 命の格差がもっとむき出しになるのは主人公が治験の証人を求めてスーダン領内の支援施設で働くお医者さんに会いに行き、反政府ゲリラだか牛泥棒だかに村が襲われて逃げる場面です。飛行機で逃げられるのは白人だろうがアフリカ人だろうが「援助関係者だけ」なのです。 撤退をめぐる命の格差はマルコ、経験があります。史上初めての複数政党による総選挙がマルコの協力隊任期中に行われました。複数政党はそのまま部族の利益を代弁する機関となり選挙を前に部族対立が激化し、選挙の結果次第ではそのまま内戦に突入という事態も想定されていました。そうなった場合、ナイロビには日本の航空会社が乗り入れていないので他国の飛行機会社に脱出用の飛行機の席を融通してもらわなくてはなりません。選挙前には渡航自粛勧告も出たはずでしたのでケニア国内の邦人数は限定されます。まず留学生の多くが選挙の1ヶ月ほど前にタンザニアに退避しました。それ以外はケニア人同僚との信頼関係もあるので直前まで平常業務に取り組み、ほんとにやばくなったら脱出、何事もなかったらそのままということになりました。 いざという場合、他国から融通してもらう飛行機の席数は民間の企業関係者に優先して割り振られました。政府関係者は民間人の退避後、陸路脱出することが決定されました。普段車で活動しているJICA専門家や外務省関係者はそれぞれの車で脱出します。車のない協力隊員は地区ごとに集合し、ナイロビ地区、西部地区、コースト地区の3地域がまずタンザニアとウガンダに車で逃れ、マルコの暮らすセントラルハイランド地区はナイロビ地区隊員をタンザニアに送り届けたあとのランドクルーザーが再び入国してくるのを待ち、その車両で最終出国する手はずでした。ケニア山を取り囲むように散在するセントラル隊員は再入国してくる車を待つ間にケニア山南麓の町ニエリに集合するように指示を受けました。ニエリはマルコの暮らすケニア山北麓の町の正反対です。マルコとあと同じ町で活動していたN脇さんは日本人離脱作戦の正真正銘のしんがりの役をおおせつかってしまったわけです。 その知らせを聞いたとき「まじか?」とつぶやいているとケニア人同僚に「どうしたの?なんかバットニュース?」といわれて、事情を説明しようとして言葉を失いました。しんがりだろうと逃げるところのある外国人はいい。彼女は3人の子どもをつれてもし内戦になったらどこに逃げるのだろう。離脱作戦が実行されないように祈るしかない。そして離脱作戦の存在自体ケニア人同僚に言ってはいけないことなのだと思いました。 選挙前夜、違法な国内移動を制限するため車両による外出禁止令がだされ、私は徒歩で選挙のある週末のあいだの食料を買いにスーパーマーケットに行きました。それから1週間は同じ市内で電話付の家に暮らしていた協力隊員の家に退避するように命令を受けました。スーパーに行く途中、NGO勤務で奥さんがケニア人のOさんに会いました。Oさんてば悠々と車両外出禁止なのにジープに乗ってました。「退避しなかったんですか?」ときくと「奥さんと子どもがいるのでもうこのままここにいます。」と涼しい風情でした。 撤退のときの順位に命の格差は如実に反映されます。日本人最下位に位置していたマルコですが、ケニア人やケニア人と同等であろうとしたOさんよりは救出準備が整えられていたわけです。 結局、部族闘争から何十人かの犠牲は出ましたが、全国規模の内戦になることはなく、与党がかなり汚く勝利を収め、選挙は終了し日常へと復帰したのでした。 ...
|
|