命の格差 ナイロビの蜂を観て(2) - 2007年02月08日(木) ではあの話が荒唐無稽かというと、そんなことはない。マルコの胸にずっしり響きました。 本当に新薬の治験が必要なら、あんな違法なまねして危険な橋を渡らなくても合法で、とっても簡単に出来るだろうなと思ったのです。たとえば本当にその新型結核にかかった人あるいはエイズと合併症で罹患している人に「治療と同時に新薬の治験もする、後遺症やもっと甚大な被害が出た場合は100ドル~500ドルの補償をする。」と公式にアナウンスしたらものすごいたくさんの治験希望者が募れるだろうと思うのです だって命の値段が安いんです、本当に。 知り合いの看護婦さんの家に遊びに行ったら軍人さんのだんなさんが今度ユーゴスラビアにPKOとして派遣されるといいます。「中欧の国の国軍に編入されて派遣されるのだがなんと毎月500ドルの報酬が出るんだ!世界の平和に貢献してそんな大金が手に入るんだ!すばらしいだろ!」とだんなさんは喜び、糟糠の妻の看護婦さんも喜びに顔を輝かせていたのが忘れられません。毎月500ドルの収入というのは破格です。ここでも経済格差は合法に命を安く買っているのです。 私の上司のケニア人高級官僚の月給が8000シリング(1994年ころで150ドルくらい?)でした。また私はキャッシュカードを盗まれたのですがその盗んだキャッシュカードで泥棒さんが一世一代の豪遊した被害額がやっぱり8000シリングでした。カード会社はその安い豪遊に「安すぎておかしい」と国際電話をかけてきましたが、私はちっとも安くないと思いました。 勤務中マラリアの熱発作を起こした同僚に頼まれてマラリヤの治療薬を買いに行くと1つぶ5円(3シリング)で売ってもらえました。この治療薬が買えなくて死ぬ人が多いスラムの住人にとって500ドルは命をかけるのに十分な金額だと思います。スラムに暮らす人は私の友達の看護婦さんや軍人さんや私の上司とはまた違うレベルで暮らすケニア人なのです。スラムに暮らす人々が実際、治療が受けられるなら、もしものこと(補償付)があっても、多くの人が「いい話」だと思うでしょう。だから新薬の治験なんて合法で被験者との合意の下、行うのは実際すごく簡単だと思うのです。 「新型結核予防プロジェクト」とかいって案件成立しそうです。でもあんなにたくさん治験による死者が出る前に、薬の改善とか方向転換はされるでしょう。合法の治験ならね。報告書かけないしさ。 でもまあドラマですから盛り上がらなくってはなりません。それでなんだか違法に治験をしてその秘密をめぐって主人公の奥さんが殺されます。そうです殺されるのは白人でなくてはいけないのです。そうじゃないと多くの映画マーケットの消費者の暮らす先進国の観客が「痛み」を感じないからです。 潔癖なケニア女性の若いCommunity Health Workerが主人公だっていいじゃん、と思ったけど、それでは映画マーケットは動かないのです。殺されるのが白人でなければ動かないマーケットとわたしたちの心、それこそ、この映画がわたしたちに訴えかける命の重みの格差なのかもしれないと思いました。そしてそれを訴えながら「ナイロビの蜂」は命の重みの格差を再生産もしているのです。 ...
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