国勢調査の想い出―ケニア編― - 2005年09月30日(金) さて国勢調査の秋である。わずかな賃金でボランティアしてらっさる調査員の皆さん、まことにご苦労様でございます。いろいろと楽しくあんな個人情報やこんな個人情報を記入していると思い出されるのは今から12年ほど前のアフリカでの乾季の終わり、マルコが青年海外協力隊からの派遣でケニアの内務省国家人口審議会、メルー県人口局次長を勤めていた時代のことである。 1993年のことだ。世銀が出資し、Usaid(アメリカ版JICAね)が実施主体になってアフリカのリプロダクティブへルスの知識やサービスの普及具合を調査する大規模統計調査が行われることになった。前回は10年前だった。このときは10年ぶりの大規模調査ということになる。 アフリカの国々でやるのだが、わがケニアでも行われることになり、ケニア側のカウンターパートは私が所属していた内務省の国家人口審議会が勤めることになった。(KDHS Kenya Demographic Health Survey とよばれておった) そんで20ページほどの分厚い調査票のまず各国共通版で作られ、それを各部族語に訳すのに先だって、パイロット調査が行われた。このときアメリカ本国から派遣された専門家のANNEさんと私の上司のニャンバティさんとパイロット調査員のカレミさんとで村でちょっと数件調査してみて、ケニアの農村部の概念と質問票の概念がうまく適合しないところをチェックした。 (例えば「子どもが熱を出したときどうしますか?」と言う質問の「熱」をメルーでは「マレイリア」なのだがそのまま使うとただの熱とマラリアの熱と混同しちゃうからどうしようかとかそんなかんじ)。 ANNEさんはUsaidの結構大物で10年前の調査のときもかなり関わったが今度はケニアでの調査の総指揮をとっていた。ANNEさんがパイロット調査の様子を見ながら「ケニアは10年で変わった。10年前は多くの人が避妊の知識も保健の知識も伝統的なもののみを持っていたけれど、いまでは伝統的なものも近代的なものも両方持っている。すばらしい変化だ。」と語った。毎日本当の末端でケニアの人とがんがん意見調整しなければならない立場にいてとても奇麗ごとを語れない気分だった私から見るとANNEさんの支援の相手国を尊重する態度はなんだかすごかった。 私見だが、長期滞在の国際協力関係者と言うのはわりと癖のある人物がおおい。しかしこのANNEさんはかなり珍しい、高潔で相手国への尊敬を(表面的にであれ)揺るがす事のない人物だった。短いパイロット調査を終え、彼女はナイロビに帰っていった。『よい協力活動をしてね』と、短く励ましてもらったのを憶えている。 さて、その後各県でのパイロット調査も終わり、各県7名ほどの調査員の選抜のための面接試験が実施された。当時ケニアはIMFと世銀による構造調整政策の真最中で失業者が町にあふれ、とくに高学歴の女子は上級の学校を出てもよい就職口がなくてみんな困っていた。そんなわけでこのリプロダクティブヘルス統計調査の調査員の応募者はものすごい数になった。採用者のなかには前のパイロット調査のときのカレミさんや巨体のアグネス、県保健局の上層部の娘のムカザなどなかなか個性的な面々が選ばれ、そして彼女達は州都ニエリで開催される調査員のための研修会(一ヶ月)のために旅立っていった。 一ヶ月後、彼女らは戻ってきてメルー県に於ける統計調査が始まった。メルーの人口の大半は公共交通の発達してない海のように広い農村に散在している。それで統計調査は全戸調査ではなくサンプル調査で行われる。100万人を越すメルーの人口のうち3000世帯ほどを調査し、傾向を見ようというわけだ。 人口局のジープに7名の調査員と監督官を乗せ、毎日海のような農村に出かけ、ターゲット世帯の前で調査員を下ろし、一時間ほどしたら調査員を回収しまた別の世帯の前でおろす。留守の場合は畑まで探しに行ったり、教会の前で待ち伏せしたりするのである。農民の多くが字が読めないこともあり、調査票にある質問を調査員は読み上げ調査対象者はそれに答えていく形式だった。 監督官は多くの場合上司のニャンバティが勤めたが、不在のときは県統計局のワンジャさんや不肖、ワタクシが勤めたりした。 一日農村を回って7人の調査者が3〜5人の被調査者を捕まえて話を聞く。そんな日々が何ヶ月も続いた。私は当時進行中のJICAのプロジェクト(やっぱり農村を経巡るやつ)の傍らそちらの仕事もしたのでホントに現場に出たのは10日にもならなかったと思う。 統計調査の項目はまったく多岐にわたっており、村のお母さんたちの年齢や結婚暦、子どもの数、その子どもが現在どこで暮らしているか、今誰が同居しているか、なんの仕事をしているかといったそれこそ国勢調査的な質問から、子どもの病気のときの対処法への知識、避妊の知識やAIDS予防知識の有無、性経験性行動の実態調査までが聞かれた。質問票の英語版を片手に現場について行ってメルー語で行われる調査をじっと聞いた。おもしろかった。 もうかなりな年のおばさんが最近6ヶ月の性交渉の相手の数を問われて6人と答えて照れたり、その地域では珍しい中学出の若いお母さんが『握手でエイズは感染する』にYESで回答しちゃったりしていた。 調査員たちの調査は一応トレーニングされているのでそんなに大変な大間違いとかはないのだが、私はカレミの調査が一番うまいと思った。いろんな聞きにくいことを「そっと」聞いて、被調査者をとても思いやってるように見えた。他の調査員はわりと偉そうな態度だった。 何ヶ月も村部での調査が続くうちに、調査員のみんながいろいろと変化していった。アグネスは髪が金髪になった。地味な印象のムカザも髪につけ毛をしてなんか派手になった。どうしたの?と聞くと、調査員には日当が日本円で500円ほど出ていた。それでみんなでおしゃれを競っているのだと言う。日本から見れば、また出資者の世銀から見てもそれははした金だろうが、一日500円、一ヶ月で15000円の仕事と言うのは当時ケニアの地方部、特に女性の仕事にはめったになかった(内務省の管理職だったニャンバティの当時の月給がそれくらいだったと思う)。そんなわけで毎日地方を巡りあるく調査員たちは毎日きらきらときれいになっていった。そのうち巨体のアグネスが私の上司のニャンバティと恋仲になった。ニャンバティには奥さんも子どももいたし、アグネスの方も遊びらしいのでその後どうにかなったという話は聞かなかったがパイロット調査から付き合ってくれてたカレミも当時ニャンバティさんと付き合っていたのでなんだか調査に行くジープの中はすごく険悪になった。 また若いきらきらした女性たちが何ヶ月も朝夕人口局に出入りしたので森林省の外部スタッフ(わずかな日当で森林省からのお知らを村部に持っていく有償ボランティア)の人が『独身の女性がこんなにたくさん給料をもらってるなんて非常識だ。誰か一人を私の嫁にしたい』と人口局に申し出て、人口局の秘書のドリーンが「キャリアをもって働いている女性に対して差別的なこといわないで!」と激しく怒り、2人はすさまじいケンカをした。私が帰国するまで森林省のおじさんは人口局ではあんまりやさしくしてもらえなかった。 そんなこんななたくさんの狂想曲のもと、めでたく調査は終了し、7人の調査員はまた新しい職場を探さねばならなくなった。ニャンバティさんはアグネスを私が抱えていたJICAプロジェクトの助手にしようとして、私とケンカした(そんな予算はなかった)。でもアグネスが新しい会社の求人に応募するときはCVを私のワープロで打ってあげた。なんかきらきらしてたみんながどんどん地味になっていった。カレミがこっそり「わたしたち随分マルコの面倒を見てあげたわ、私たち日本にボランティアに行ってあげたいな、マルコがケニアにボランティアに来ているみたいに(注1)」と言われた。 (注1:青年海外協力隊は現地ではジャパニーズボランティアと呼ばれていた。) そうだね、カレミみたいに誰とでもそっと仲良くなれて、うまく話しを聞いてくれる人が国勢調査のボランティアに来てくれたら助かるね、と今思う。でも日本はみんな字が読めるから、聞き取り調査じゃなくて被調査者が自分で書いて封筒に封入して送るんだよ。 ところでANNEさんはこういう現場の修羅場とは多分最後まで無縁だったのだろう。調査のデザインはしても実施現場に長期間、踏み込んではいないはずだ。私だって垣間見てみただけなのだが、なんだかホントに大変な日々だった。でも面白かった。そしてマルコはケニアの人に対しての認識はANNEさんほど高潔ではなくなってしまった。でも「大変だけど面白い。」と、いうあの日々への認識はそのままマルコのケニアに対する認識でもある。 ...
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