西方見聞録...マルコ

 

 

時限恋愛 - 2005年03月16日(水)

 突然だが図書館で「デッドエンドの思い出」吉本ばなな著(文芸春秋)を借りて読んだ。ちょっと切ない感じのラブストーリーが数本収録されていた。あとがきによると「出産をひかえて、過去のつらかったことを全部清算しようとしたのではないか」とあって、「なにひとつ自分の身の上に起きたことなんか書いたことないのに、何故かこれまで書いたものの中で一番、私小説的な小説」ばかりだそうな。

 この本の中で、恋をしたけど相手は異国に行くことが決まっていて「もうすぐ別れるだけの」「何をしていてもすごく楽しくて、すごく悲しい」若い男女の話が出てきた。そう言う設定ってあまりにも作り物めいていてあんまりしっくりこない話が多いのだが吉本ばななが描く淡々としたなんとなく若年寄っぽい若者像が演じるとこういう設定でも素直に読めた。

 大江健三郎の「治療塔」に出てくる主人公リッチャンとその夫の朔ちゃんも出会ってわりとすぐ恋に落ちて結婚して子どもを産んだと思ったら、朔ちゃんはとっとと宇宙の果てに行ってしまってリッチャンは子どもを育てながら朔ちゃんの帰還を待つのだが結局(生身の人間としての)朔ちゃんは帰らない話だった。まあテーマが男女関係じゃないので大宇宙の中の人類の癒しの前では一組の男女の別れはけっこうあっけない描かれ方をしていた。

 あらかじめ設定された別離を前提に恋愛するのは結構エネルギーの要ることだ。自己陶酔の甘い悲嘆の罠にはまらないように淡々と日々を送ったり、その間に論文書いたり通常業務をこなすのはまったく骨の折れることだ。

 マルコとあめでおさんも恋愛したと思ったらすぐにマルコが二年間アフリカに赴任することが決まったので別離が時限タイマーでセットされたみたいな恋愛初期を送った。そしてその間に2人とも修士論文を書いたんだから今考えるとご苦労さんな話だ。(どうでも良いけど小説ではいつも置き去りにされるのは女なんですが、旅立つ方が絶対お得だと思います。)

 でもこのごろ思うのだが「別離」がセットされてない人間関係なんてない。いつか皆緩やかに別れていく。生きていても別れるし、死んで別れていくのは避けられない。子どもだって自立していつか巣立っていく。別離が関係の初期に来るか、後期に来るのかの違いなんだろうな〜。でも当事者の痛い感じはきっと初期だろうが中期だろうが末期だろうが変わらないように思う。というかそれぞれのそれなりの痛みがあるのだろう。

 ちなみに別れっぱなしになる覚悟がなくて別れてもまた再会して関係を再構築しようね、というのが一番しんどいように思う。なんか愛だけじゃなくて執念みたいなものが混入するので。私も帰国してあめでおさんと結婚するまでは「これは愛ではなく根性のような執念のようなものではないのか、もしかしたら呪いも少し入ってるかも」なんて考えたこともあった。多分全部なのだろう。

  吉本ばななの話を読んで少し別離と再会をテーマにした本とか読んでみたくなった。例えば、弥二喜多IN DEEP(しりあがり寿著)とか?ちょっと違うか。



...



 

 

 

 

INDEX
past  will

Mail Home