東南アジアサッカー調査メモ...ogaoga2k

 

 

君が想い出になる前に - タイ - 2004年07月23日(金)

さて、2004年アジアカップ。
日本代表はタイ代表と戦います。


おそらく、コレを読んでいるほとんどの方は、日本の勝利に疑問は沸かない
でしょうし、正直僕もタイの勝機は少ないと思います。


でも、ちょっと過去を振り返ると・・・

ちょうど20年前の1984年も、日本代表とタイ代表は戦っております。



・・・1984年。

成岡翔と綿矢りさとアヴリル・ラヴィーンが生まれ、パソコンのマックが
発表され、僕はゲーセンで「ハイパー・オリンピック」を鉄定規プレイし、
トルコ風呂はソープランドに改名した年・・・

って、いい加減どうでもいいですが。



前年に韓国でKリーグが創立され、日本のリーグでは読売クラブが優勝。
徐々に国内でもプロ化の兆しが見え始めた、そんな時代であります。


当時の日本代表監督は、森孝慈氏。81年から川淵三郎氏から
監督を受け継ぎ、ロス五輪本大会出場に向けて頑張っておりました。


日本はロス五輪一次予選でフィリピン・台湾・ニュージーランドと
同組に入り、ニュージーランドに次いで2位という成績で、最終
予選に進出したのでした。


そして1984年の4月に、シンガポールでロス五輪最終予選
が始まり、日本はタイ・マレーシア・イラク・カタールと同組に入った
のであります。



この最終予選ではグループが2つあり、各グループ1位が本大会
出場、そして各グループ2位同士のプレイオフで、のこりの1枠が
本大会出場という形式でありました。


日本の初戦は、タイ代表。


運命の4月15日、シンガポール・ナショナルスタジアムで
日本代表に激震が走りました。


1984/04/15 タイ代表 5 - 2 日本代表

タイ: ピヤポン x3(PK1), チャローム, チャレンプット
日本: 柱谷幸一, 木村和司(PK)


----------------------------------------------
 Japan : Goal : Thailand
----------------------------------------------
     : 0 - 1 : '16 ピヤポン
     : 0 - 2 : '25 チャローム
     : 0 - 3 : '48 チャレンプット
     : 0 - 4 : '40 ピヤポン
柱谷幸一 '71 : 1 - 4 :
     : 1 - 5 : '72 ピヤポン(PK)
木村和司(PK) '78 : 2 - 5 :
----------------------------------------------


日本▼田口光久 松木安太郎 菅又哲男 加藤久 都並敏史 田中孝司
   木村和司 前田秀樹 金田喜稔 原博実 碓井博行(柱谷幸一)

タイ▼ナラサク スティン スルーク アムナット ブラパン チャレンブット
   マダルト(ブーンナーム) チャリット(ジッチポン) ピヤポン
   ホラワン チャローム




この試合についてのシンガポール側の記事とコメントを、
SINさんという方が当方に送って頂けました。


以下、そのメールを抜粋いたします。
なお、当方の日記はウェブのレイアウト上読みにくいので、
コチラの方で句読点や段落などは変更した箇所が何点かあります。


(以下、メール)
=========================

84年の日本対タイ戦のストレートタイムズ紙の報道です。
 

  タイはサッカーの世界ではスキルとイマジネーションに代わる
  ものはないということを示した。


  日本はタイの見せた個人技とすばらしいゲームの読みに全くついて
  いけなかった。

  50分が経過し4対0とリードされてから、日本はようやく激しく
  走り回るやり方(ハード・ランニング・ゲーム)をやめ、より
  システマチックで創造力あふれる技術を使い始めた。

  しかし、すでに遅すぎた。タイは日本の守りを簡単に崩せたことで、
  ぐっと自信をつけていたのだ。

  (ジョー・ドライ記者)



 タイの新聞ではないので残念ながら両チームのメンバーはありません。


 このときの日本のサッカーですが、簡単にいえばボールを持っても
 前に進めないのです。

 後ろへ後ろへとパスをして左サイドの田中孝司からロングパスを
 出して右ウイングの金田喜稔を走らせるというワンパターン。

 そして得点は原博実の頭(それが第3戦のイラク戦ではまりました)
 だけが頼りという感じでした。


 もちろん得点力がなかったといえばそれまでですが、最大の弱点は
 GKにありました。その時のキーパーは田口光久でしたが、彼は全く
 セービングができないのです。つまり飛べないキーパーなのです。

 自分の目の前に飛んでくるボールはただパンチングだけ。それも
 あまり遠くまでとばないのでクリアにはならず、ピンチは続きます。
 左右のシュートに対してはただ見送るだけか、ゴールの枠から外れて
 くれるのを祈るだけ、というありさまでした。

 
 もちろんピアポンはすばらしいストライカーに違いありません。しかし
 GKが田口ではなかったら何ゴールかは救われたでしょう。


 もちろんこの試合は日本の出来も悪かったのですが、実力的にも
 あきらかにタイの方が上でした。



 初戦がタイと決まったとき日本人は一番楽な相手と当たったと喜んだ
 ものでした。私もその一人でしたから、偉そうなことは言えません。
 しかし無知もいいところです。


 今大会、タイは残念ながらピアポンが第2戦以降は不調で本大会
 出場はなりませんでしたが、グットチームでした。


 東南アジアでは有名、しかし日本では無名のキャプテン、アムナート
 を中心としたDFもポジショニングがしっかりしていて、イラクや
 カタールに完全に抜かれたり、あるいは穴を作ったシーンはなかった
 記憶が今でもあります。

 一方攻撃はピアポンに頼りすぎたのが敗退の原因のひとつですが、彼が
 もっと安定して力を発揮できるように本当に怖いと思ったものでした。


 あれからもう20年が過ぎて私の記憶もかなりいい加減なものになって
 いるのは否定できません。しかしシンガポールやタイ、そして東南アジアに
 大いなる興味を持つきっかけとなったのは、シンガポールでのロス五輪
 アジア最終予選であることは間違いありません。

(以上)
=========================

結局、ロス五輪最終予選は全敗、翌年のW杯メキシコ大会最終予選も
プロリーグが発足した韓国が最後の壁となり、出場ならず。

アマチュアの限界を感じた日本サッカーどーちゃら・・・というのは、
ここでは場が違うのでやめておきます(というか、詳しくないし)

が、もしココでタイにボコボコにされなければ、Jリーグの発足は
少し遅れてたのかもしれませんね。



ピヤポンは韓国のKリーグに渡りリーグ得点王になったりしてます。
そして、彼の息子(Pongpisuth Pue-on)は現在イングランドの
ミドルスブラで、研修生?(スコラーシップ)という立場におります。



それにしても、


>簡単にいえばボールを持っても前に進めない

>後ろへ後ろへとパスをしてロングパスを出して
>右ウイングを走らせるというワンパターン。

>得点は原博実の頭だけ

うーむ・・・今だったら、すっげーみんな怒りそうだなー。
でも、それしかなかったんだろうな、きっと・・・。



まあ、タイなんかよお、とか東南アジア弱小〜とか、オイルマネーで
中東はダーティでキタネエぞ、とか思うのは勝手だと思いますが、
すでに20年前に「イメージだけで語るとトンでもナイ目に会うぞ」と
いうことが実際に起こっているわけであります。

(逆に俺は、期待しすぎてガッカリするパターン多し(笑))



アジアカップという4年に1回のお祭りで、イメージとの
ギャップをどんどん埋めて、もっと楽しめるようにしたい
っすね。はい。

(だからこそ、俺は中央アジアチームがもっと見たい)



んでも腹が立つのは・・・・

「なんで時差がほとんどない中国の大会なのに、
  寝不足気味なのよ、俺!」



:今回の参考資料
「日本サッカーの未来世紀」 後藤健生著 文春文庫2001
「日本サッカー史・代表編」 後藤健生著 双葉社 2002


...



 

 

 

 

もくじ
前の日記  次の日記




メール ホームへ