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■ 薄氷を踏むように
辛いニュースばかりが耳に残る。 ざわざわと、耳の奥でいやな音を立てている。
傷つけられて、あるいは傷つけたことを贖うように死んでゆくひとたち。
なぜ子供は自殺するのか、とつぶやいて。 「死ぬ気でやってやれないことはない」だとか。 「その勇気があれば、いじめをはね返せたのではないか」とか。 その行動を理解できないと頭を抱える大人たちの横で。
自殺するひとは、とりわけ子供というものは、 たぶんあまりにあっけなく、その溝を飛び越えるんだと思う。
13年前「今日もっていくお金がどうしても見つからなかった」と書き残して自殺した男子中学生のことを、私は今も忘れられないでいる。 たったそれだけのことで、と言うひともいるかもしれない。 そのひとはたぶん、どうしようもなく追い詰められるということ、今日明日をどうやって生き抜けばいいのかすら考えつかないというほど真っ暗な淵を、覗きこんだことがないのだと思う。
自分に置き換えてみると。
もしも、あのとき。 苛められているその場所へ近づくだけで、彼らの哂う声が遠く聞こえるだけで、冷や汗が出て足がすくんで吐き気がするような身体で。 それを認めてもらえなくて、「負けるんじゃない」とか言われて、無理やり家から追い出されていたなら。 どこにも行き場が、逃げ場がなかったなら。 もしかしたらあっさりと死んでたかもしれない、と思うこともあるわけで。
隣で「簡単に死んでしまう子供の気持ちが分からない」と母が嘆くから。 そんな昔の「もしも」を淡々と伝えたら、彼女は言葉をなくしていた。
そのくらい、境界線は曖昧で、踏み外す段差っていうものも、実はたいしてないんだと、ただ伝えたかっただけなんだけど。
うまく言えないけれど。 真っ只中にいるとき。 ただ苦しかった「今日」があり、もっと苦しいだろう「明日」があるだけなんだよね。 そこを生き抜くことが途方もなくむずかしい。 その連続の中で、どうにか踏みとどまるか、踏み外すか。 そこには1ヶ月とか、1年先とか、ましてや10年先とか、 そういう未来なんて、存在しないわけで。 どうしたって思い描けないでいるわけで。 いつか楽になる自分というものを。
そうして、他に何も逃れる術を思いつかなくなって。 或る日、それこそ「今日」をやり過ごせなくなって、 自ら、その舞台から降りてしまう。 傍から見れば、あっけないほどに。
2006年11月13日(月)
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