unsteady diary
riko



 

いじめによる自殺が報道される度に、
今更ながらそれぞれの痛みにシンクロしてしまうのだけれども。

久しぶりに哀しみよりも怒りで笑いたくなるほど身震いして、ただもう悔しくて涙が出た。
中2女子の、部活でのいじめを苦にしての自殺。
校長と、部活の顧問の言葉に。

遺族を訪問してはっきりと「いじめ」の事実を認めた翌日に、「いじめはなかった」と言葉を翻す。
「遺族と5時間も話していたので意識が朦朧としていて、いじめがあったと言ってしまった」とか「遺族の誘導尋問によるもの」だとか。

震えるほどの強い怒り。

遺書の文面からも「いじめによる自殺かもしれないと推測できるだけ」だとうそぶいた校長の表情には、言い訳をする大人の卑怯さしかなくて。
死を悼む気持ちなど、欠片も見受けられなかった。

それ以上頑張ることができなくて、ただもう疲れ果てて死に対する恐怖も感じられなくなった人間に、そんな強い言葉が残せると思うのか。

追い詰められるということが実感としてまるで分かってはいない人間の、あまりに心ない言葉。

なんの関わりもない私でさえ、10年と少ししか生きなかった少女が、最後の言葉に自分自身を「お荷物」だと表現せざるを得なかったことを想うだけで、苦しくて苦しくてしかたがないというのに。




結局は自分で自分と大切な人たちを守っていくしかないのか。



いじめに負けないためには、誰かひとりでいい、自分のそばで本当に悔しがり、哀しがり、自分を愛し、手を握ってくれる人がいること。
家族は、抱きしめてあげて。
友人なら、手を握ってあげて。
どうか。どうか。
ただそれだけでいい。
そうしたら、逃げる自分を、負ける自分を、惨めな自分を、肯定することができるから。

2006年10月30日(月)
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