unsteady diary
riko



 「SKIP」とか


昨年12月にキャラメルボックスの「SKIP」を観に行った。


明るい未来を夢見る普通の高校生・主人公真理子は、ある日まどろみから覚めたら、40代の子持ちのオバサンになっていた、というお話。
原作は、ご存知のとおり同名のベストセラー小説だ。
とは言っても、まったくストーリーを知らないまま舞台を観ることになったのだけれど。


ただのタイムスリップ物かと思いきや、物語は意外な方向へ進んでいく。
SFのように時間を飛び越えたのではなくて、実際には普通に生きてきて、突然記憶が欠落した、というだけの、現実。
奇跡なんて起こらないのだ。
そうして、すっくと立った若木のようにまっすぐで、潔癖で、恋に恋するような年頃の少女の感性だけが、オバサン(便宜上の表記)の中に、取り残された。
それでも彼女は歯を食いしばり、必死に現実を生きようとする、けれども。



ラスト近く、真理子は学生時代の親友と再会する。
意識だけがタイムスリップしたと話すと、「信じられない。現実逃避からの記憶喪失では?」と否定されて、沈む彼女。
気まずい再会となってしまった二人の耳に、どこからともなく赤ん坊の泣き声が聴こえてきた。
それに対して親友は、「自分の子供の泣き声を思い出す」と微笑んだが、真理子には自分が産んだはずの子供の泣き声すら、欠片も思い出せない。
自分の身体のどこを探しても、それは「聴いたことのない音」でしかないということに気づかされ、堪えていたものがあふれて、泣き崩れる。


それは、あまりに哀しすぎる「気づき」だった。


実際に存在する「家族」と「自分」とを深く結びつけてきたはずの数々の記憶が、身体のどこを探しても、「知識」として以上の実感を持たないということ。
永遠に喪ってしまったものの果てしなさに、慟哭するだけ。


胸に迫ってくる喪失感に、ぼろぼろ泣いた。
なんでそんなに泣くのかと自分でも思いながら、止められなかった。


結論から言えば、「STEP」は悲劇ではない。
誰が死ぬわけでもなく、最終的には、ひたむきに今日を生きようとする一人の女性の、むしろ清々しい物語であったはずなのに。





今日の帰り道、いつものように田舎道を走るバスに乗っていた。
薄暗い車内で、ふと解った気がした。
どうしてあんなにシンクロしたのか。
真理子のように、「喪った」というのとは違うけれども。
たとえば20歳の自分から、これまでの5年がどのように過ぎたのかと考えれば、喪いたくないと思うほどの鮮烈な記憶が、手ごたえが、そもそも欠落していた。
辛くて、少しでも楽になるようにとだけ祈って、鈍る感性でどうにかやり過ごしてきた時間。
目が覚めたら急に25歳になっていたとしても、今の気分と大差はないのかもしれない。
そのこと自体が、私の中で共鳴した「喪失感」だったらしい。


薄い膜が張られていて、どこかで別の人の人生とつながっているようなもどかしさ。
その前は、何を願い、どんな風に傷つき、夢見ていたのか。
赤ん坊の声に反応することが出来ずに泣いた真理子のように、確かにあったはずの痛さがはっきりと蘇らないことが、酷く堪えた。






そういえば。
先日某Rに呟かれた「輝いていない」という言葉は痛くて、
何ひとつ、返す言葉はなかった。




2005年01月19日(水)
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