 |
 |
■■■
■■
■ ヒロイズム
旅行の準備から逃避して、日記を書く。 計画的に行動するとか、準備するとか、昔から苦手なのだな。 そして夜が更ける。
ラジオをつけると、誰かのテロの犠牲者に捧げる歌があちこちの局で流れていた。 天邪鬼な私は、殺されるより、殺す側の気持ちが気になる今日この頃。 どんな気持ちで、ビルに突っ込んでいくのかとか。 純粋な興味と、少しの感傷。
崩壊寸前のビルの中で、「愛してる」と恋人への最後のメッセージを留守電に残したという、そのひとは。 なんというか、とても文化的で、人間的で、うつくしく、立派だと思った。 そして、メッセージを残した優しい彼を喪った女性は、恋人はいなくても自分を愛してくれる家族がいると気づいた、と涙ぐみながら語っていた。 彼女は、喪ったものの大切さを、痛みを、語る言葉を持っている。 そんなふうに愛し、愛される、そのことに重みのある社会。 彼らは、たいがいの人にとって、きちんと人間に見えるだろう。 化け物じゃなく、“人間的”な、こころの“豊かさ”を持った存在に。
テロとは全然関係ないけれど。 最近、ちょっと気になるCMがある。 「生きるために森を焼く人に、森を守ろうという声は届かない」だっけ? 二酸化炭素がどうとか、100年後がどうとか、たくさんの理由があっても。 今を生きるための行動をただ責めるだけでは意味はない、と。 結局、焼畑ではなく稲作を教えてますっていう、企業のイメージアップの宣伝で終わるんだけど。
昔、熱く友人と語ったことがある。 売春の是非、なのだけれど。 私は基本的に、女の性にだけ商品としての価値があるのが許せなくて。 それはいまも変わっていないのだけれども。 ただ、生きるためにその身のほかに何も持たないひとが、 春を鬻ぐことを誰が責められるのか、という思いがずっとあって。 だから、女の尊厳を傷つけられるくらいなら死んだ方がましだとか、 そういう言葉は嫌いで。 女が女を責めるのに、“尊厳”なんて、ある程度の土台があるから、語れる言葉で。 ぎりぎりのところで息をしているだけのひとに、 届く言葉ではないと思う。 方法が間違っていると決めるのは、私ではない。 実際に身体を削るようにして生きるしかない、そのひとにとって、 それがただひとつの正しいことなら、 責める言葉に力はない。
本当に苦しいひとは、それが苦しいということを知らないで生きている。 幸せな状態を、豊かさを、ゆとりを、知らないから。 もちろんそれは、単純に物理的なものだけではなく、 こころの安らかさも含めてだ。
語る言葉をたくさん持っているアメリカという国。 それに対して。 もがきながら、「たすけて」という言葉さえ綴れないひとたち。 歌を、知らないひと。 なにひとつ訴える術をもたないひと。 なによりも、等しく生きる権利があるのだということを、 ただ生きるのに必死なひとは、知らないでいるのだろう。
先に泣いた側が勝つような気がするのは、 私の気のせいなんだろうか。
2002年09月15日(日)
|
|
 |