unsteady diary
riko



 ヒロイズム


旅行の準備から逃避して、日記を書く。
計画的に行動するとか、準備するとか、昔から苦手なのだな。
そして夜が更ける。







ラジオをつけると、誰かのテロの犠牲者に捧げる歌があちこちの局で流れていた。
天邪鬼な私は、殺されるより、殺す側の気持ちが気になる今日この頃。
どんな気持ちで、ビルに突っ込んでいくのかとか。
純粋な興味と、少しの感傷。



崩壊寸前のビルの中で、「愛してる」と恋人への最後のメッセージを留守電に残したという、そのひとは。
なんというか、とても文化的で、人間的で、うつくしく、立派だと思った。
そして、メッセージを残した優しい彼を喪った女性は、恋人はいなくても自分を愛してくれる家族がいると気づいた、と涙ぐみながら語っていた。
彼女は、喪ったものの大切さを、痛みを、語る言葉を持っている。
そんなふうに愛し、愛される、そのことに重みのある社会。
彼らは、たいがいの人にとって、きちんと人間に見えるだろう。
化け物じゃなく、“人間的”な、こころの“豊かさ”を持った存在に。




テロとは全然関係ないけれど。
最近、ちょっと気になるCMがある。
「生きるために森を焼く人に、森を守ろうという声は届かない」だっけ?
二酸化炭素がどうとか、100年後がどうとか、たくさんの理由があっても。
今を生きるための行動をただ責めるだけでは意味はない、と。
結局、焼畑ではなく稲作を教えてますっていう、企業のイメージアップの宣伝で終わるんだけど。



昔、熱く友人と語ったことがある。
売春の是非、なのだけれど。
私は基本的に、女の性にだけ商品としての価値があるのが許せなくて。
それはいまも変わっていないのだけれども。
ただ、生きるためにその身のほかに何も持たないひとが、
春を鬻ぐことを誰が責められるのか、という思いがずっとあって。
だから、女の尊厳を傷つけられるくらいなら死んだ方がましだとか、
そういう言葉は嫌いで。
女が女を責めるのに、“尊厳”なんて、ある程度の土台があるから、語れる言葉で。
ぎりぎりのところで息をしているだけのひとに、
届く言葉ではないと思う。
方法が間違っていると決めるのは、私ではない。
実際に身体を削るようにして生きるしかない、そのひとにとって、
それがただひとつの正しいことなら、
責める言葉に力はない。



本当に苦しいひとは、それが苦しいということを知らないで生きている。
幸せな状態を、豊かさを、ゆとりを、知らないから。
もちろんそれは、単純に物理的なものだけではなく、
こころの安らかさも含めてだ。



語る言葉をたくさん持っているアメリカという国。
それに対して。
もがきながら、「たすけて」という言葉さえ綴れないひとたち。
歌を、知らないひと。
なにひとつ訴える術をもたないひと。
なによりも、等しく生きる権利があるのだということを、
ただ生きるのに必死なひとは、知らないでいるのだろう。



先に泣いた側が勝つような気がするのは、
私の気のせいなんだろうか。


2002年09月15日(日)
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