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ぼけっとテレビを見ていたら、インドでカーストを越えて恋愛結婚するカップルの取材レポートが流れていて、昔読んだ本のことを思い出した。
タゴール瑛子著「嫁してインドに生きる」
タゴールという姓にピンと来る人もいるだろうけれど、 ノーベル文学賞をとった有名な詩人の一族へ嫁いだ日本女性の手記。 古きよきインドの上流階級の暮らしを身近に感じたいなら、読みやすい1冊。
今も印象に残っているのは、カーストが違う結婚は基本的に認められないけれども、女性が身分が低い場合には許されるのだということ。 身分の低い男ならば、それと同じレベルまで、女を引きずり降ろしてしまうが、逆の場合、身分の低い女は身分の高い男によってその価値を引き上げられるからだ。 その根底には、男性こそが女性を位置づけるという根本概念がある。 逆に言えば、女は、自分の性だけでは男を貶めることもできないということだ。 性とカーストがどこまでも人間を支配する社会。
だからといって「正さなければならない」などというレベルで語れるような単純な問題ではなくて、どちらかというと、インドでは昔からそうやって人が生きているんだという、圧倒的な差異を意識した。
今は少しずつ恋愛結婚が増えてきたりして、宗教的な儀式の為の装飾が観光みやげとして売れるようになったりもして、徐々に伝統的なインド社会も変わりつつあるようだけれども。 そのときの私は、初めから決められているように生きるという選択肢しかなくて、そのことに疑問を感じないまま生きるということが、少しだけ羨ましかった。
どんなきっかけだったのか忘れたけれど、看護婦になろうとしている従妹に、半陰陽の子供の性の決定の問題などを話したことがある。 彼女は、お産に立ち会ったばかりで、現実として、命の誕生を知っていた。 看護士見習いの男の子と、乳房マッサージについて打ち合わせをしたり、お産を一緒に見たり、という話をしていて、「私が妊婦だったら嫌だろうな」と私が言うと、どうして、という顔をしていた。 そんな彼女の前で、私の話すことは机上の空論に過ぎなくて。 だって男の子は男の子、女の子は女の子でしょ、と。 性同一性障害については知識があるのだが、それはすなわち男が女に、女が男になりたがるということでしょ、と言うだけ。 最後に、「私はあまり深く考えないから」と彼女は笑った。 シンプルだから、強い。
生きる目的って必要だろうか。 自分の身体が息をしていること自体を忘れて、 もっと“素晴らしいこと”を探しつづけて。 ただ生きているだけでは、なぜ生きられないんだろうか。
2002年05月19日(日)
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