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■ 善と悪の境界線は
リュック・ベッソン監督の「ジャンヌ・ダルク」を見た。 結論から言えば、期待以上だった。
私は遠藤周作の「沈黙」あたりが大好きな人なので、 信仰と生きることとの葛藤や、信仰による理不尽さや傲慢さみたいなテーマは、わりと身近だった。 奇跡を起こす聖少女に興味はないが、奇跡を起こせなくなって尚、剣の先に平和があると戦いを無理に続けようとする少女には、興味が湧いた。 あの傲慢さ。 勝手に信じたものに裏切られ、身勝手に傷つくその痛さ。 特に後半、ジャンヌが攻め立てられるあたり。 おまえは真実を見たのではない、見たかったものを見ただけなのだ…というような台詞が、心に残っている。
なにが奇跡か、意味づけるのは人間。 なにが神か、それを意味づけるのも、人間。 つまりは、人智を超えたものは、人間がつくり出しているのだということ。 人間がもっとも偉大だというのではけっしてないが、 もし人智を超えた偉大なものがあるとすれば、ただそこに横たわる事象だけだと思う。 ただそこに事象があって、それが解釈によっては聖女にも魔女にもなろうというだけ。
自分は神に選ばれて戦い、間違ったことはなにひとつやっていないと主張し、神に自分を見捨てる気か、とすがるジャンヌは。 疑いもなく神の啓示だと解釈してきた全ての徴の曖昧さと、“神のため”と謳いながら、実際には自分のためにも行った数々の罪に気づく。 そしてやっと(自分にとっての)神に許される。 運命や使命などの晴れがましいものから、ある意味では見放され、一方では解放される瞬間。 そして火刑。
本当に後半がとてもイイ。 ただの宗教映画にしないところが、さすがだなあという感じ。 某悪魔祓いがテーマの怖くて有名な映画とか、 私は笑っちゃうだけだったもの。 善悪の判断をつけるのは、絶対的な神じゃない。 そこに非道な行為があったとしても、それはもともと「悪魔である」からではなくて、その行為において「悪魔になった」のだと思う。 行為があり、人間がある。 そこは切り離されなければならないんじゃないだろうか。 うん、だからこれも罪と身体を結びつける死刑にためらう理由のひとつ。
綺麗で傲慢な正しい、太陽のような人をこそ、本当にアナタは正しいのか、その影で泣く人はいないのか、と貶めたくなる性悪な私なので、この映画はかなり好き。 私もそうやって己の傲慢さを問う声に引き摺り下ろされ、 自分が無力でちっとも正しくないということを思い知らされて、 自分の強さや正しさを信じていた頃よりは臆病になり、その分気楽にもなったはずだから。 そういう傲慢なほどのまっすぐさも、たぶん愛すべきものだったけれども、 鼻っ柱を折られて、そこから這い上がったら、 見えるものもまた違うはずだ。
まあ、シリアスな話は置いておいて、 脇役がすごく個性的でわくわくしてしまった。 吹き替えだから、本来の役者さんの演技とは全然違うんだろうけれど、 キャスティングがわりとはまっていたので、よくある違和感もなかったし。 反発していた周囲が徐々にジャンヌを認めるようになるあたりは、「紅一点」って感じで、ちょっと少女漫画的だったけれど。 聖少女として大切にされるというよりは、あまりに一生懸命なのでほだされてしまって、人間ジャンヌとして愛されていった感じだから、まあ納得。
負けが見えているのに、疲れきった味方の兵をそれでも戦わせようとしたジャンヌのエゴに対して、現実を見ろ、と止めた男とか。 勝利のあと累々と横たわる死体にショックを受けたジャンヌに対して、「お前が望んだことだろう」と皮肉気に微笑んだヤツとか。 周囲のほうが余程オトナに描かれているな、うん。(苦笑)
2002年02月01日(金)
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