unsteady diary
riko



 陰陽師(≠映画版)


夢枕獏さんの「陰陽師」の語りというものを、ラジオで聴いた。

「二人語り」という不思議な形式をとっており、ヘップバーンの声でお馴染みの池田昌子さんが清明を、渋い演技をする政宗一成さんが源博雅を、演じている。
残りの地の文はふたりで分担、もしくは唱和。
ドラマに欠かせぬ効果音というものはなく、
イメージ音楽だけが、語りを時折支えている格好だ。
朗読ほど人間の味がしないわけでもなく、
かといって、臨場感というものを追求したわけでもない。
なんとも静かで、無駄なものを一切そぎ落とした語りだけに、
人間の言葉の魅力に気づかされる。

清明は、割り切れぬ部分をいとおしむようなあいまいな色気があって、なんとも、艶やか。
政宗一成さんが源博雅を演じているのも、無骨な愛嬌が魅力的で。
夢枕さんの独特な、ともすればとっつきにくいような文章が、落ち着いた声音の語りで再現されると、こんなにも印象深くなるものか、と驚いてしまう。




ある一場面から。


(ある女が、心変わりした男を恨み、呪い殺そうとしている。)


復讐のために鬼にもなろうという女だ。
うつしみで願いが成就できないとあらば、死をも賭けよう。
悲しいことだが、一度離れた人の心は二度と戻ってこぬ。
そのくらいは女自身もわかっていようさ。
何日も何十日も幾月も、毎日毎晩その女は、そのような理を持って自分自身を納得させようとしたに違いない。
しかし納得できなかった。
できなかったからこその、鬼ぞ。
誤解の上でのことなら、その誤解を解けばよい。
しかしこの場合は、そうではないとは思わんか。
救いようがないのだよ、当人の心に鬼が棲んでおるのだからな。
鬼を消したとしても、最後には当人そのものを消さねばならんことになる。

…俺にはできん。

                       夢枕獏 「陰陽師」


「そのような理を持って自分自身を納得させようと〜できなかったからこその、鬼ぞ。」

という部分に惹かれた。
この「陰陽師」はSF的な扱いをされるが、
けっして非現実的な世界ではないという気がする。
実際に呪い殺すことができるかどうかは別として、
誰にでも心にちいさな鬼が棲んでいて、それを理でどうにか抑えつけている。
薄氷を踏む、そんなイメージ。
最後まで氷が割れずに岸にたどり着く人もいれば、
ほんの少しの重さが過ぎたために、足元から崩れ落ちる人もいるのだろう。

道理を、正論を、自分に言い聞かせ、情念をねじ伏せる。
それでもねじ伏せられなかったほどの想い。
なんともおどろおどろしいけれど、
ただの絵空事、としてはとらえられない自分がいる。

2001年12月04日(火)
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