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■ 陰陽師(≠映画版)
夢枕獏さんの「陰陽師」の語りというものを、ラジオで聴いた。
「二人語り」という不思議な形式をとっており、ヘップバーンの声でお馴染みの池田昌子さんが清明を、渋い演技をする政宗一成さんが源博雅を、演じている。 残りの地の文はふたりで分担、もしくは唱和。 ドラマに欠かせぬ効果音というものはなく、 イメージ音楽だけが、語りを時折支えている格好だ。 朗読ほど人間の味がしないわけでもなく、 かといって、臨場感というものを追求したわけでもない。 なんとも静かで、無駄なものを一切そぎ落とした語りだけに、 人間の言葉の魅力に気づかされる。
清明は、割り切れぬ部分をいとおしむようなあいまいな色気があって、なんとも、艶やか。 政宗一成さんが源博雅を演じているのも、無骨な愛嬌が魅力的で。 夢枕さんの独特な、ともすればとっつきにくいような文章が、落ち着いた声音の語りで再現されると、こんなにも印象深くなるものか、と驚いてしまう。
ある一場面から。
(ある女が、心変わりした男を恨み、呪い殺そうとしている。)
復讐のために鬼にもなろうという女だ。 うつしみで願いが成就できないとあらば、死をも賭けよう。 悲しいことだが、一度離れた人の心は二度と戻ってこぬ。 そのくらいは女自身もわかっていようさ。 何日も何十日も幾月も、毎日毎晩その女は、そのような理を持って自分自身を納得させようとしたに違いない。 しかし納得できなかった。 できなかったからこその、鬼ぞ。 誤解の上でのことなら、その誤解を解けばよい。 しかしこの場合は、そうではないとは思わんか。 救いようがないのだよ、当人の心に鬼が棲んでおるのだからな。 鬼を消したとしても、最後には当人そのものを消さねばならんことになる。
…俺にはできん。
夢枕獏 「陰陽師」
「そのような理を持って自分自身を納得させようと〜できなかったからこその、鬼ぞ。」
という部分に惹かれた。 この「陰陽師」はSF的な扱いをされるが、 けっして非現実的な世界ではないという気がする。 実際に呪い殺すことができるかどうかは別として、 誰にでも心にちいさな鬼が棲んでいて、それを理でどうにか抑えつけている。 薄氷を踏む、そんなイメージ。 最後まで氷が割れずに岸にたどり着く人もいれば、 ほんの少しの重さが過ぎたために、足元から崩れ落ちる人もいるのだろう。
道理を、正論を、自分に言い聞かせ、情念をねじ伏せる。 それでもねじ伏せられなかったほどの想い。 なんともおどろおどろしいけれど、 ただの絵空事、としてはとらえられない自分がいる。
2001年12月04日(火)
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