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■ 眠くなるとりとめのない話
昔話、とりわけ痛めな話をするとき。 あとで必ずと言っていいほど後悔する。 それが日記であるならば、削除キーに手がかかる。 それでも懲りずに何度も書いてしまうけれど。
他人の昔話を読むと、心をつかまれて、そんなふうに素直に書きたくなる。 自分を責めないくらい大人でいる人の昔話は、 私のとは違って湿っぽくもイタくもなく、 素直にしみてくるので。
なにが違うんだろうと考えて。 いま解決されているから、昔話が昔話として書けるのだろうと思った。
私にとって昔話とは、過去に起こったことではあるけれど、 現在まで続いている感覚の、端っこというだけで、痛感はどっちにもある。 なので、切り離して語ることができない。 昔話のほうが、現在よりは生々しくないかな、という程度の違い。 ものによっては、それなりに解決したつもりで語れるものもあるけれど、ね。
私はたぶん、平気な顔をしていたいのだと思う。 怖いもの、傷つけられたくない部分、笑われたら我慢できないこと、 そういうパーツをちっとも持ち合わせていない人のふりをしていたい。 でないと、 そうした部分への他人の攻撃(助言ともいう)を、 受け止める強さが足りないから。
日記でも日常でも、私は弱音を吐くことが多いので、素直な(いい意味でも悪い意味でも)人間と思われがちだ。 だからといって、心の底から、何もかもさらそうとしているわけではなくて、 むしろ、その逆。 言葉にできないほど痛い部分を見せないために 相手に気づかせないために ほどほどに痛い、乾燥し始めた傷を見せる。 それで、見せたがり欲みたいなものは満たされるし、 本体とまではいわないけれど、片鱗を伝えることは、一応できる。 「これは友人の話なんだけど」といいながら、 実は自分の暴露話をする、みたいな感じだ。
生々しい部分まで言葉にしなくても私のことを理解してくれる、 そんな特別な人が実際にいるはずもない。 強い絆なんてものも、空から降ってくるわけじゃない。 だからこそ。 いま、私が言葉にできないでいる部分を隠しつづけている以上、 自分が楽になることはありえないと、解ってはいる。 わかっていてつづけているのだから、救いようがない。
本当の意味で「楽になる」という状況がわからないから、 泥沼のなかから抜け出せないのだと、 ある本には書いてあった。 なるほど、と思ったけれど、 体験したことのない安らかさは、どんなに人の言葉を借りても、自分のものにはならないし、このままわからないままでいるのかもしれないと思う。 楽になる、という感覚が、もっと先に広がっているものなのか、 これが行き止まりで、あとは甘えずに耐えてゆくべき領域なのか。
肉体にかかる負荷ならば、耐えられる、耐えられない、の境界線が もっとはっきりしているのに、 精神にかかる負荷は、自分の中の絶対値だから、見極めが難しい。 自分に甘い私にとっては、特に。
2001年11月11日(日)
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