unsteady diary
riko



 眠くなるとりとめのない話

昔話、とりわけ痛めな話をするとき。
あとで必ずと言っていいほど後悔する。
それが日記であるならば、削除キーに手がかかる。
それでも懲りずに何度も書いてしまうけれど。

他人の昔話を読むと、心をつかまれて、そんなふうに素直に書きたくなる。
自分を責めないくらい大人でいる人の昔話は、
私のとは違って湿っぽくもイタくもなく、
素直にしみてくるので。

なにが違うんだろうと考えて。
いま解決されているから、昔話が昔話として書けるのだろうと思った。

私にとって昔話とは、過去に起こったことではあるけれど、
現在まで続いている感覚の、端っこというだけで、痛感はどっちにもある。
なので、切り離して語ることができない。
昔話のほうが、現在よりは生々しくないかな、という程度の違い。
ものによっては、それなりに解決したつもりで語れるものもあるけれど、ね。



私はたぶん、平気な顔をしていたいのだと思う。
怖いもの、傷つけられたくない部分、笑われたら我慢できないこと、
そういうパーツをちっとも持ち合わせていない人のふりをしていたい。
でないと、
そうした部分への他人の攻撃(助言ともいう)を、
受け止める強さが足りないから。

日記でも日常でも、私は弱音を吐くことが多いので、素直な(いい意味でも悪い意味でも)人間と思われがちだ。
だからといって、心の底から、何もかもさらそうとしているわけではなくて、
むしろ、その逆。
言葉にできないほど痛い部分を見せないために
相手に気づかせないために
ほどほどに痛い、乾燥し始めた傷を見せる。
それで、見せたがり欲みたいなものは満たされるし、
本体とまではいわないけれど、片鱗を伝えることは、一応できる。
「これは友人の話なんだけど」といいながら、
実は自分の暴露話をする、みたいな感じだ。


生々しい部分まで言葉にしなくても私のことを理解してくれる、
そんな特別な人が実際にいるはずもない。
強い絆なんてものも、空から降ってくるわけじゃない。
だからこそ。
いま、私が言葉にできないでいる部分を隠しつづけている以上、
自分が楽になることはありえないと、解ってはいる。
わかっていてつづけているのだから、救いようがない。


本当の意味で「楽になる」という状況がわからないから、
泥沼のなかから抜け出せないのだと、
ある本には書いてあった。
なるほど、と思ったけれど、
体験したことのない安らかさは、どんなに人の言葉を借りても、自分のものにはならないし、このままわからないままでいるのかもしれないと思う。
楽になる、という感覚が、もっと先に広がっているものなのか、
これが行き止まりで、あとは甘えずに耐えてゆくべき領域なのか。

肉体にかかる負荷ならば、耐えられる、耐えられない、の境界線が
もっとはっきりしているのに、
精神にかかる負荷は、自分の中の絶対値だから、見極めが難しい。
自分に甘い私にとっては、特に。



2001年11月11日(日)
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