unsteady diary
riko



 私らしいことに、明言はせずに終わるのね…

今日のNHKの「世紀を超えて」を見た。
バイオテクノロジーを核に、生命倫理、老い、病、死について
さまざまな切り口から語った特集。

去年の倫理学の授業を思い出した。
尊厳死、安楽死について学んだ興味深い授業だったのに
私は、最後のレポートをなかなか書きすすめられなかった。
けっきょく提出したものの、けっして納得のいくものではなかった。
答えなんて、出せないままだったからだ。
すごく書くのがつらかったのを覚えてる。

そのとき授業で見たのは、1,2年前のNHKの特集だったと思う。
さらに遡ると、最初に安楽死のテーマを扱ったNHK特集を見たのが、
たぶん中学のとき。
医師の注射で人が死ぬ、最後に心電図が平坦になる瞬間は、
わたしのそれまでの価値観を揺さぶるものだった。
いろいろなことが、選択肢としてわたしの前に置かれた。
知らなければ、選べない。そのぶん迷わずにすむ。
だが、知れば知るほど、どんどんわからなくなる。

それから、5年以上の月日が流れた。
世界は後戻りすることなく、動きつづけていた。

去年調べたオランダでの安楽死の方法は、
合法ではないものの、医師が条件に合った安楽死の判断をしたと
裁判で立証できれば、罪に問われないという回りくどいものだった。
医師には、安楽死させたあとに、審判が待っているわけで
リスクもないわけではなかった。
それが、今日の特集で知ったのだが、さらに状況が変わり、
オランダでは完全に合法化する法律が可決されたそうだ。
さらにベルギーなどでもそれにつづく動きが出ているそうである。

アメリカには、患者の自己決定権法というものがある。
その考え方に基づけば、
死ぬときを自分で決めたいという権利もまた、生じてくる。
オレゴン州では医師による自殺幇助が合法化されたそうだ。
しかし、合衆国レベルで、議員たちから烈しく糾弾されている。
「オレゴン州の医師は死刑執行人」だというのだ。
だが、実際に手続きを待っている人もいるわけで。
そのひとりである患者さんの言葉が印象的だった。
「私に言わせれば、反対する議員たちはわたしに拷問をしてるようなものよ」
私もそう思う。
議論されている場に、実際に病に冒されている人など、ひとりもいないのだ。
健康な肉体、健康な精神をもって、
なにを語れるだろう。
なにを反対できるのだろう。

けっきょくそこに行き着く。
いつもいつも。
ただ未来がわからないということではなく、
私がいる今は、私が健康な今だから。
そして、私の周りの大切な人が、同じく健康な今だから。
どこまで痛みがわかるだろう。
どこまで切羽詰って共感できるだろう。
それはとても感情的で、なにも役に立たないようにも思えるけれど、
共感できない人がつくる生命倫理のガイドラインも、
法律も、なにも意味がないはずだから。
想像にはとても限りがあって、だが知ることですこしでも
湧いてくるものがあるのも確かだった。
どう規制し、一方ではどう認め、さまざまな危険をはらむテクノロジーを活用してゆくのかは、まずそこから始まらなくちゃいけないと思う。


安楽死を望む手続きをしていた女性は
どうしても必要な2人目の医師からの末期だという診断を待っていた。
だが、その医師は死刑台のスイッチを押したがらなかった。
娘が説得をするシーン。
私なら、どうするだろうと考えてみる。
母親が苦しまないで逝けるよう、やはり安楽死を認める診断をするよう、医師を説得するだろう。
だが、明るく、明るく、それは可能だろうか。


「よく死ぬことは、よく生きることだ」(千葉敦子)
という本がある。
末期がんに対して、自分らしく最期まで毅然と生きた人の手記といえばよいのだろうか。
千葉さんの本を読むときはいつも、背中を叩かれている気がする。
「もっと強く、生きられるはずよ」というふうに。
だけど、本当に誰もがもっと強く生きられる?
それならなぜ日本ではいまだに末期がんを告知するのを躊躇うのだろう。
やはり耐えられない人がいるからではないのか。
あなたには、それができた…わけなのだけど。

もちろん患者には自己決定権がある。
それは絶対におかされてはならないと私も思う。
だから、まずは知らされなければならない。
どんな技術があり、どんな生きる方法があるのか。
ひいては、どんな死に方があるのか。

ただ、その前にひとつ、思い出すエピソードがある。
末期であると宣告されて、安楽死を望んでいた人がいて。
それをホームドクターはのらりくらりと引き延ばしていた。
きっかけは、確か孫ができたんだっただろうか。
彼は、死にたがらなくなった。
そして、余命半年以下と言われていたのが、
2年以上生きたのだという。

医療技術は、ヒトゲノム計画ですべての運命が解読できるだろうと言われているのなら、たしかに人間を超えるのだろう。
だが、一方で、人間もつねに、医療にはわからない部分は、どうなるのだろうか。
未知数の部分が残りつづけるのか、それとも…。
こう思うのは、私がロマンティストで、文系で、なにも知らないからかもしれないけれど。だけど、医療が実際に使用される人間は、たぶんわたしと大差ない普通に生きてる人々のはずだ。

この危機感は。
未知数がなくなる危機感だと思う。
ほんとうになくなる?
たぶん、技術がもっと進歩するなら、そうなるんだろう。
それを止められはしないし。
恩恵を受けたいと、いずれは私も望む日が来るだろう。

リチャード・ドーキンスという人の言葉は、未知数がなくなるだろうことを予言していた。
「人間も含め、すべての動物は、遺伝子に操られた乗り物に過ぎない」

私はこの言葉に身震いした。
だが、だからといって、科学の発達を否定することなどできやしない。
進歩は、時間の流れと同じく、覆せないのだ。
地球のなかで、空間を変えて、とりあえず20年くらい遡ることはできるだろうけど。そういう回帰主義は好きじゃない。
現実逃避にすぎないと思う。
自分だけが逃れたつもりでも、もう全てを知っているのだから。

技術が先行する、現代の状況のイメージは、たとえばこういうもの。

目の前にいつだって使っていいよと武器が置かれている。
平和なときは手を伸ばさずにすむだろう。
だが、目の前に敵が迫ったら、とりあえず手にとってしまうだろう。
それまでがいくら平和主義者だったとしても、
案外信条だの、法律だのは、簡単に変えられる。
そうしていくつもの戦争と、戦争に伴う科学技術の前代未聞の急速な発達がまさに今世紀、こうして起こったのだ。
つまり、そういうことだ。

この先、テクノロジーを人間がきちんとコントロールすればいいと言う人がいる。
確かにそうやって付き合ってゆくより他ないだろう。
だが、コントロールできるとしたら、それは確実に、科学ではない何かだ。
テクノロジーを生み出した科学がテクノロジーを支配できようはずがない。
だとしたら、欲望は、人間の心理は、なにによってコントロール可能なのか。

わたしは、以前、ここで詰まったのだった。
そして、今日もまた、ここで止まったのだ。

わたしが感じる欲望は、いまのわたしの欲望で、将来のわたしの欲望でもなければ、また他人のそれでもない。
だから、とてもあいまいなもの。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
目の前に自由に置かれた武器であるなら、つまりテクノロジーが規制されなければ、欲望は天井を知らないだろうということだけ。


P.S
favorite words更新。
生命倫理のことを考えるとき、脳裏に浮かぶ、ある母の立場からの詩を
アップしました。
ひとつの確固とした姿勢として、とても惹かれるものです。
そのうえで、反発も感じないわけではないけれど。
よかったら、こちらも読んでみてくださいね。

2000年12月25日(月)
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