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■ 越境/コーマック・マッカーシー
『越境』/コーマック・マッカーシー (著), 黒原 敏行 (翻訳), Cormac McCarthy (原著) 単行本: 390 p ; サイズ(cm): 19 x 13 出版社: 早川書房 ; ISBN: 4152079606 ; (1995/10) 内容(「BOOK」データベースより) 第二次大戦前夜―。ニュー・メキシコ州の小さな牧場で育った16歳の少年ビリーは、罠にかかった牝狼を故郷の山に帰してやろうと決心し、ひとり国境を越えてメキシコへ向かう。だが苦難の旅を終え、家に戻ったビリーが知ったのは、馬泥棒に両親が殺されたという恐ろしい事実だった。奪われた馬を取り戻すために、彼は生き残った弟のボイドを連れて、ふたたびメキシコに不法入国する―。失われたものを捜し求め、革命やジプシーや盗賊、そして自然と神話に彩られた異国へと越境していく少年の運命を、ボーダーレスな文体で壮大に描き、絶賛の嵐を呼ぶ「国境三部作」第二作。
※画像は原書 『The Crossing (The Border Trilogy, V. 2)』
厳しい寒さの中での緊迫した狼と少年の描写が素晴らしい。集中しないと、なかなか難しい文体だけれど、雰囲気は好きなので、徐々に進むだろう。マッカーシーは、時々何を血迷ってか、一部で哲学的なことを書く。今回も例に漏れずなのだが、それも慣れたので、「ああ、ここか」という感じで流せるようになった。実際、この哲学的な部分には、何の意味もないことが多かったりする。
しかし、「まだ昇らない月の光が東の谷間にかかっている霞を硫黄色に煙らせている。ビリーがじっと眺めていると月明かりが荒涼たる平原に流れ出し、やがて大地の向こうから白い太ったぶよぶよの月が昇ってきた」なんていう月の描写は、マッカーシーならではの描写だと思う。月は美しく描かれるものと、だいたい相場が決まっている。けれども、「白い太ったぶよぶよの月」って、たしかにあると思う。
<国境三部作>の他二作に比べても、この作品は自然を非常に鋭く観察している作品だと思う。退屈な情景描写はあまり好きではないが、これに関しては、ひとつひとつの文章をゆっくり噛みしめて読みたいといった感じ。一気に素早く読めるのが面白い本だとも言えるが、この作品のように、どれだけ時間がかかっても、大切にじっくり読みたいものもある。
登場人物の感情など無視して(マッカーシーは心理小説が嫌いらしい)、淡々と語られていくだけなのだが、「淡々と」という書き方は、非常に好ましい。登場人物の気持ちが、読者すべてに共感を得るとは限らないのだから、感情を押し付けることなく、淡々と書いてくれたほうが、読むほうは自由に想像を広げることができ、その分楽しめるというものだ。
訳者あとがきに、以下のようなことが書いてあって、何も考えずに読んでいる私は、へええ〜、そんなにすごい本だったのか!などと今更のように思った次第。
------------------------以下「訳者あとがき」から抜粋
『越境』は、詩と幻想に哲学を織り合わせて、<世界>とは何か、そこにおいて人間はどういう存在であるのかを問う、形而上小説といっていい。作者は《ニューヨーク・タイムズ・マガジン》のインタビューで、プルーストやヘンリー・ジェイムズの小説は理解できない、自分にとってはあれは文学ではないと語っている。プルーストやジェイムズが形而上的深みを持たないとはもちろんいえないが、大雑把にいえば、彼は心理小説には興味がない、彼の文学は社会における人間と人間の関係を扱うのではなく、<世界>(ほぼ<宇宙>といいかえてもいい)と人間の関係を扱うのだ、ということになるだろう。
マッカーシーが本当の文学として挙げるのは、ドストエフスキー、メルヴィルであり、特に『白鯨』が好きな小説だという。実際、『越境』と『白鯨』の親近性は顕著である。『白鯨』では、心理が覆い隠されている場所としての陸と心理が発現する場所としての海が対置されたが、『越境』でもアメリカとメキシコ(ないし人間社会と荒野)という形でその対立構造が描かれる。しかもメルヴィルの海もマッカーシーのメキシコも作者が五感で知悉(ちしつ)している世界であり、形而上世界は鮮烈な色彩と香りと肌触りと響きに満ちた叙事詩の上に築き上げられている。
また『白鯨』では人間はみな<孤児>であるというテーマが重要な意味を持ち、<孤児>であり<自己追放者>であるイシュメイルが宇宙の光を闇のドラマに立ち会い、ひとり生き残るが、『越境』のビリーも<孤児>、<自己追放者>となって<世界>の残酷な真の姿を発見し、みずからは証人として生き延びる(というより死ぬことが許されない)という運命をたどる。ある作品が『白鯨』に比肩しうるなどとは、おいそれといえるものではないが、『越境』がそれをためらわせない作品であることは多くの読者が賛同されることと思う。
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というわけで、おいそれとは言えないらしいいが、これはなんと『白鯨』と並び称されるくらいの小説だったのだ。とはいえ、『白鯨』はグレゴリー・ペック主演の映画でしか知らず、数年前の誕生日に 八潮版の『白鯨』 をもらってからも、一度もそのページを開いていない私としては、どこにどう親近性があるものやら・・・という感じなのだが、ここまで言われては、『白鯨』も読まなくてはならないだろう。
ちなみに私のPCでは、「はくげい」では一発で出てこない。いつも「しろくじら」と打つ。偉大なる文豪の名作のタイトルなのだから、「はくげい」くらいぱっと出てきてもよさそうなものだけど。
にしても、黒原氏のあとがきを読むと、いつも感心させられる。翻訳をするにあたって、どの作品でも必ず勉強のあとが見えるからだ。おおかたの翻訳家はそれ相応の勉強と下調べをするのだろうが、中にはそうでない翻訳家もいるので、こういったあとがきを目にすると、良心的で真面目な(ほとんどは良心的で真面目だとは思うが)、素晴らしい翻訳家だと感動すらする。
やっと、コーマック・マッカーシーの『越境』を読み終える。とはいえ、これもいつまでも読み終えたくない作品のひとつだった。マッカーシーの世界は、「孤高」という言葉がぴったりの、けして飾られた言葉などないのに、とても美しい世界だ。
前にも書いたかと思うが、マッカーシーの自然の観察眼の鋭さは、あらゆる場面ではっとするものがあって、自然はけして美しいだけでなく、厳しく無情でもあると教えてくれるのだが、それでもなお、彼の描く自然は美しい。
情景描写には、そうたやすく感動しない私だが、彼の言葉は美しい。それは翻訳の黒原氏の力もあると思うが、日本語で読んでも、原文に負けないくらい十分に感動できる。
ただし、この<国境三部作>の二作目は、非常に哲学的な作品だ。三部作の他二作と比較しても、その傾向は顕著だと思う。たまに血迷って哲学的なことを書くマッカーシーが、大いに血迷った作品と言えるだろう。しかしそれが、過酷な自然の描写とあいまって、さらに「孤高さ」を際立たせている。
個人的に芸術的だと思う文章というのには、なかなかお目にかかれないのだが、これは芸術だと思った。
2005年01月11日(火)
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