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 コレクションズ/ジョナサン・フランゼン

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『The Corrections』はジョナサン・フランゼンの会心作。成人漫画顔負けのむんむんした活気の中、登場するのはアン・タイラー作品さながらの気まぐれでとっぴな家族。ただしこちらはかなり毒気が強い。フランゼンはクリスマス休暇に帰省した一同の愚かな人生航路を巧みに描き出す。自己欺瞞に満ちた大学教授、巨乳大好きの脚本家、退屈で野暮な年寄り、いつもイライラしているアーティスト気取りのソーホー住人…。そんな彼らが漕ぎ出したそれぞれの人生。そこに待ち受けていたのは狂気の沙汰としか思えないインターネット主導型社会、そしてソ連分裂後の東ヨーロッパだった。

ランバート一家のメンバー5人は全員、人生に行き詰まりを感じていた。家長のアルフレッドは痴呆症。大手製薬会社が以前の彼の発明をもとに革命的治療法を開発したものの、彼の病気は治らない。妻のエニッドは「断固拒否」が得意技のがんこ主婦。当然子どもたちも独自路線を歩んでいる。まず遊び人の次男チップ。学生をたぶらかしておいしい大学教授の職を棒にふり、新しく始めた脚本家としてのキャリアにも暗雲が漂っている。次にチップの妹デニース。ロマンチックに言えば、いつも苦境に立たされている悩める都会派シェフといったところか。最後に長男ゲーリー。こちらは息詰まる結婚生活で気が変になりそうな銀行員だ。フランゼンは彼らの困難で悲しい人生をたたみかけるように描写するが、途中シニカルなユーモアで読者を笑わせることも忘れない。


最近ゲーリーは地球の構造プレートと同じくらい気がかりなことがあった。ミッドウェスト地域から涼しい沿岸地域に移住する人の数がどうも多すぎる…。いっそ人口移動を禁止すればいいのに。そうすればミッドウェスト生まれの人たちも大手を振って故郷に戻るだろう。お得意の練り粉たっぷりの食べ物だって思う存分食べられるし、堂々と流行遅れの服を着てボードゲームに興じることもできる。なにしろ「無知」の貯えを維持しようという国家戦略のためなのだから。おいしさに「無知」な人々、彼らがいなくなったらぼくみたいな洗練された特権階級の人間がいい気分になれないじゃないか。


フランゼンはあくまでおもしろい。その笑いの狙いはぴたりとハマっている。本書は彼の存在感を強烈にアピールした傑作だ。

内容(「MARC」データベースより)
老境に入った夫婦は家族の絆の修正(コレクションズ)をクリスマスに託したが…。家族が陥った危難をシニカルに描き出し、現代人にまつわる悲喜劇を紡ぎ出す。全米図書賞に輝いたベストセラー小説の邦訳。



読み始めてすぐに、難しい!と思ったが、読み進めていくと、書かれている内容は、べつに難しいものではなく、普通の家族の危機といったことなのだが、それを小難しく大仰な言葉で、覆っているといった感じ。例えば以下のような。

「ゲイリーは極端に真面目な性格だ。暗室に入るとき、彼は自分の第3神経因子(これはセロトニンで、きわめて重要な要素だ)の週間上昇率、いや月間上昇率も、プラスの数値を示していると評価した。第2因子と第7因子の量も期待を上回っているし、第1因子は夜寝る前に飲んだアルマニャックに起因する早朝の減退から立ち直っている。足取りには弾みがあり、平均以上の身長と晩夏の日灼けの心地よい自覚があり、妻のキャロラインへの不満は適度に抑制されている。肉体の疲労はパラノイアのおもな徴候(キャロラインと上の二人の息子が自分を馬鹿にしているのではないかという執拗な疑惑)を誘いがちだし、人生の虚しさと短さの間隔も定期的にぶりかえすけれども、精神の経済は全体として力強さを見せている。絶対に鬱病などではないのだ」

で、こういう大げさな言葉の使い方も面白いとは思ったが、結局は、こうした言葉を取り去った奥のほうにある、事実だけを読み取ればいいのだと思った。セロトニンがどうこうなんてことは、どうでもいいことなんだろう。フランゼンの小説は、こういった言葉に騙されてはいけないのだと思う。そう思って、気を楽にして読むと、結構面白い。

読書途中に、ブックカフェで翻訳者の黒原敏行さんの話を聞いたのだが、やはり翻訳者の話を聞いたあとのほうが、なんだかよく理解できるような気がした。というか、最後のほうでは、あまりフランゼン節が出てこなくなって、大げさな修飾のない、ありのままの家族の姿が見えてきたというのもあるかも。

ともあれ、一時は途中で諦めようかとも思った本だったが、読み終えることができてよかった。父親が老いて、手足の自由がきかなくなり、頭も呆けてきて、家族に迷惑をかけるようになる。でもすっかり呆けているわけでもないので、自分で「けりをつけたい」と切望するところなどは、涙ものだ。

一見、頑固でわからずやの父親のように見えるが、彼なりの優しさやポリシーがわかったとき、一人の人間としての父親が浮かび上がってくる。それがなんとも悲しい。父親だから、男だから、というのがいいのかどうかはともあれ、「言わずにいる」ということは、それなりの覚悟がいることなのだと思う。

この本では、息子や娘、そして妻についてはその都度言及し、多くのページをさいているのだけれど、父親の本当の姿がわかるのは、最後の最後だ。どんなことをしてきたかということは書いてあっても、彼の心の奥底に触れるのは、本当に死ぬ間際のことなのだ。結局、父親とはそういうものなのかもしれない。家族の柱とは、良い悪いはともかくとして、何か一人で背負っていかなくてはならない重荷があるのだ。それをいちいち口には出さないだけなのだと、今更のように実感した。

コーマック・マッカーシーの『すべての美しい馬』の話がメインだったブック・カフェだったが、当然フランゼンの話も出ているので、参考までにその日の日記をリンクしておく。
<翻訳ブック・カフェ Part12─ゲスト:黒原敏行>

2004年06月14日(月)
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