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 ギャスケル短篇集/エリザベス・ギャスケル

内容(「BOOK」データベースより)
ごく普通の少女として育ち、結婚して子供を育て―とりたてて波瀾のない穏やかな生涯の中で、ギャスケルは、聡明な現実感覚と落ち着いた語り口で人生を活写した魅力的な作品を書いた。本邦初訳四篇。

目次
ジョン・ミドルトンの心
婆やの話
異父兄弟
墓掘り男が見た英雄
家庭の苦労
ペン・モーファの泉
リジー・リー
終わりよければ

●翻訳者・松岡光治氏の「エリザベス・ギャスケルのサイト」
「日本ギャスケル協会」


<気にいった作品>

●「異父兄弟」

これは父の違う兄弟が、片方は可愛がられ、継子のほうは冷たく扱われるというよくある話ではあるのだが、ここでは最後に、冷たく扱われている継子の兄のほうが、自分の命を犠牲にして弟を救うという話で、とても感動的で胸を打たれる。「自己犠牲」のテーマは、様々な小説に描かれているが、なんと高潔な行為だろうか。ともすれば自分の幸福のことばかり考えてしまう私たちだが、この話は自分を犠牲にしても、人のために何かをすることの大切さを教えてくれる。それと、親の思いひとつで、子どもの人生のなんと変わってしまうことか!それもまた身のすくむ思いがした。


●「墓堀り男が見た英雄」

これもまた「自己犠牲」の話だ。喧嘩を売られても、絶対に買おうとしない男。彼は恋人にもあいそをつかされて、別の男にとられてしまうのだが、ある日その二人を自分の命と引き換えに助けるという話。ここでは「自己犠牲」も重要ではあるが、喧嘩をしないという精神的な強さについて重きが置かれている。たしかに、売られた喧嘩を必要もないのに買うのは馬鹿である。どこかの国の大統領や首相に読ませたい。大事なことは見せかけではなく、いざというときに示されるものだ。


●「家庭の苦労」

妻として、母として、家庭を守る女は大変な苦労がある。通り一遍に読めば、そういうことなんだろうが、これは女だから・・・ということではないと思う。たしかにこの時代には「女は家庭にいるもの」というのが当たり前であっただろうが、これはそういうことではない。相手の気持ちを思いやるということの大切さを描いているのだと思う。

相手の立場や、相手がして欲しいと思っていることを汲み取り、自分本位ではなく、お互いに思いやるということだ。そうすれば、家庭もさることながら、人間関係は円滑に行くということだろう。女だから、男だからということではないのだと思う。そういう意味で、この話もまた「自己犠牲」のひとつだと思うが、「家庭がちゃんとしていなければ、帰って来たくなくなる」という部分は、耳が痛いかも。

しかし、それは男も女も一緒である。夫婦だとか男女とかの差別なく、お互いに相手の気持ちを考えて、思いやりの心を持てば、どれほど忙しくても、どれほど辛くても、おのずと自分のしなければならないことが見えてくるということだろう。

時代背景というのはどうしても無視できないが、今のように男女平等でもなかった(今でも完全に平等とは言えないが)と思うし、この話では父親がいないため、家を支える者としての兄の立場は大きいのだろう。

けれどもその一方、別の意味で女性が家庭を支えていなければ、家庭は崩壊してしまうということも言っているのだと思う。つまり、お互いに支えあっているということ。現在ではどちらがどちらの役割かはどうでもいいが、当時はやはり男女の役割は変えられないことだっただろうと思うので、ひとつの例え話として男女の区別なく受け止めれば、家庭でも職場でも通じる話だと思う。文字通りに受け取ってしまうと、現代ではフェミニストの反感をかうことになるかも。



最後の「終わりよければ」もなかなか良かった、というか面白かった。たしかに牧師の妻だけに、非常にキリスト教的で、なにやら説教めいた部分があるのは否定できないが、この短篇が掲載されたディケンズ編集の雑誌の種類を考えれば、致し方ないことかもしれない。

それでも時代を超えて、人間のあるべき姿というのは、変わらないと思う。一見、女性の生き方について書いているようだが、人間の生き方としても間違いではないだろうと。どの話も、自分のことばかり考えていてはいけないといましめているようで、たしかにそうだなあと納得。

『女だけの町』とは全然雰囲気も違うが、文章はやはり上手いし、読ませる力も変わりはないように思う。おそらく『女だけの町』のほうが特殊だったのだろうと思う。ディケンズが好きかどうかはともかくとして、ディケンズに白羽の矢を立てられたというだけのことはあると思う。

日本ギャスケル協会のギャスケルの「文学的特質」というページの中で、特に気になった部分を下に抜き出してみた。(●印の記事)

●たしかにギャスケル夫人の描いた小説は人間性の善意の本質にその根底をおいている。基本的に単純さを信条とするギャスケル夫人の小説を評価するにはやはり批評家の単純な心を必要とする。ポラード氏は「現代の批評は偽の複雑さを探求することにあまり熱心で、それらの批評家のたわごとに我々はまどわされがちである。」と述べている。ギャスケル夫人の真価はそれらの現代の批評家たちには認められなかったことは当然のことであるように思われる。

●エリザベス・ギャスケルは人間生活の失意や災難に対して目を覆うことなく、事実を直視し「いかに生きるべきか」という人間の根本間題に立ち向って行ったのである。このような作家態度には今まで時折間違えて真に理解しなかった批評家がギャスケル評に用いた「なまぬるさ」という形容詞の入る余地はないのである。考え方がなまぬるいのでなくて純粋なのである。視野が狭いのでなくて深いのである。個性の強さの点で欠けるものという従来の批評はもっとも当を得ないものであって、彼女ほど世俗と妥協しないきびしさで人間の生き方を探求して行った個性的な作家は数少ないといえる。



現代の批評家は、まさに上にあるように「偽の複雑さを探求すること」にのみ熱心で、シンプルな小説はあまり評価されないように思う。ギャスケルのように善を描いている作家は軽んじられ、むしろ悪を描いているほうがもてはやされているように思えてならない。悪を描いている話のほうが、読む人間は良心の呵責を感じず、心が痛まないからだ。

また、「いかに生きるべきか」というのは、ここにあるように「世俗と妥協しないきびしさ」であると思う。そこには、基本的に男女の別は関係ないと思うし、ギャスケルがたしかに妻として、母として立派であったとしても、そのことだけに注目するのではなく、妻として、母としての経験を取り入れた上での大きな意味での人間性を見るべきであろうと思う。

2004年01月06日(火)
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