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 The Autobiography of Santa Claus/Jeff Guinn (つづき)

チャールズ・ディケンズ
アーヴィングとムーアのおかげで、アメリカではクリスマスがポピュラーになったが、ニコラスはクロムウェルによってダメにされてしまった、イギリスのクリスマスのことを心配していた。そこでアーヴィングは、チャールズ・ディケンズをニコラスに紹介した。ニコラスは早速イギリスに渡り、ディケンズを訪問する。

ディケンズは何度かクリスマスの話を書いたことがあるのだが、今ひとつだった。相談を受けたニコラスは、あまたはこの地球上で最も優れた作家だと思うと前置きしたあとで、ディケンズのクリスマス・ストーリー「The Goblins Who Stole a Sexton」について感想を述べた。一緒にいたアーサーは、「何を差し置いても、すぐにFather Christmasの物語を書き始めるべきだ」と力説した。

それから間もなく、ディケンズは『Christmas Carol』を書き上げた。それを読んだニコラスたちは大変感激し、アーサーに至っては「これまでに印刷されたものの中で最も素晴らしいクリスマス・ストーリーである」と太鼓判を押したが、ニコラスの妻レイラが登場人物の「Little Fred」という名前はよくないとし、「Tiny Tim」ではどうかと言ったため、ディケンズは早速原稿を手直しした。原稿はすぐに印刷され、1843年のクリスマス前に、瞬く間に評判となった。1844年にはイギリス中が、再びクリスマスを祝う気分になっていた。

Yes, Virginia
アメリカはどんどん近代国家になっていったが、その影響で、「サンタクロースは科学者が作ったもの」という人々も出てきた。ある年、ニューヨークに住むヴァージニア・オハンロンという8歳の少女が、「ニューヨーク・サン」誌のQ&Aコーナーに手紙を出した。

「私は8歳です。私の友達の中には、サンタクロースなどいないと言う人もいます。パパは「お日様の下で見えるならいるんだろう」と言います。どうか本当のことを教えてください。サンタクロースはいるんですか?」

これを読んだ記者のチャーチは、1897年9月21日の新聞に回答を載せた。
「Yes, Virginia, there is a Santa Claus !」
サンタクロースがいなかったら、世界はなんて寂しいことだろう。誰もサンタクロースを見たことはないが、サンタクロースがいないという証拠もない。サンタクロースは今も生きているし、永遠に生きている。今から10の1万倍の年月がたっても、サンタクロースは子どもたちの心に喜びを与え続けるだろう・・・と。サン誌ではその後22年間、クリスマスシーズンになると、このQ&Aを掲載した。

ニコラスは、原則として子どもにしかプレゼントを届けなかったが、例外として、サン誌の記者チャーチにプレゼントを届けたことがある。1897年のクリスマスの朝、チャーチは暖炉の前に吊るした靴下に入っているプレゼントを見つけた。それは子どもの頃にもらったのと同じビー玉だった。さらに靴下の中には、サンタクロースからのメモもあった。

「Thank you. Love, Santa」

こうして、新聞に掲載されたヴァージニアの手紙とチャーチ記者の返答によって、多くの子どもたちが再びサンタクロースを信じるようになった。

北極移住計画

この頃、レイラ、ベンジャミン・フランクリン、レオナルド・ダ・ヴィンチ、フェリックスは、世界中に散らばっている仲間が、人知れず秘密裏に一緒に働けないものかと頭を悩ませていた。ダ・ヴィンチは、トーマス・ナストのサンタクロースの漫画に、「サンタは北極に住んでいる」とあったのを思い出し、北極なら完璧だと思うと述べた。

1800年代の後半、北極はまだ大変神秘的な場所だった。誰もがそこにあるのは知っていたが、誰も行ったことがなかったからだ。サンタが北極に住んでいるというナストの漫画はジョークだったが、ダ・ヴィンチは本気だった。北極なら秘密が守れるし、人に邪魔されることもない。何より、皆が一緒に住める広大な面積がある。だが雪はどうする?氷は???

そこでダ・ヴィンチは、初めて北極に足を踏み入れたロバート・パーリーに会いに行った。パーリーは、飛行機を発明したオーヴィルとウィルバーのライト兄弟に助力を求めた。

セオドア・ルーズベルト
1901年、セオドア・ルーズベルトがアメリカの大統領になった。この時ニコラスは、長い間考えていたプランを実行することを決意した。知性と想像力の持ち主であるルーズベルトに、他の国のリーダーだちを紹介してもらいたいということである。ルーズベルトはサンタクロースの訪問を大変喜び、自分の名前のついたおもちゃを作って欲しいと頼んだ。ニコラスは願いを聞き入れ、ルーズベルトのお気に入りの動物のおもちゃを作ることにした。1903年には、最も人気のあるおもちゃとなった「テディ・ベア」である。

ルーズベルトは喜んでニコラスの頼みを聞き入れ、サンタのおもちゃ工場の本部を、ホワイト・ハウスに置いたらどうかとまで言った。しかしニコラスは、サンタクロースは世界中の子どもたちに公平でなければならないから、ひとつの国に属するのはよくないと辞退する。

ルーズベルトの助力で、再びロバート・パーリーに会ったニコラスたちは、北極に住むことを真剣に検討し始めた。外側を守るのは雪。近い将来、飛行機がその上を行き来しても、そこに誰かが住んでいるなどとは思わないだろうから。

ライト兄弟
1903年12月27日、ライト兄弟はキティ・ホークで初飛行をし、世界的に有名になった。ニコラスは、自分はすでに毎年クリスマスシーズンには空を飛んでいるのに・・・と思って、それほど感激もしなかったが、飛行機と一緒に写っているライト兄弟の写真を良く見ると、うしろに背の高い痩せた男が写っているのをみつけるだろう。誰あろう、それがレオナルド・ダ・ヴィンチである。

北極に住むための準備
1909年の初め、ダ・ヴィンチは北極に建てる家の模型を完成させた。時よろしく、ロバート・パーリーが北極点を目指すというので、ダ・ヴィンチ、スコーカン、アーサー、アッティラ、レイラ、そしてニコラスが一緒に下見に行った。パーリーの冒険が成功した数ヵ月後、フレデリック・クックが、自分が先に北極点に到達したと言い出し、ひと騒動が起こった。

その後数年間、ダ・ヴィンチたちは北極で準備を進め、ついに1913年5月、ニコラスたちはトナカイで北極に飛んだ。そして、北極がサンタクロースの住むところとなったのである。この年、大統領を退いたセオドア・ルーズベルトは、せひ仲間に入れて欲しいとニコラスに頼み込んでいた。

第一次世界大戦が終わった1919年、ニコラスたちはついに、セオドア・ルーズベルトを北極に迎えることを承認する。この時ルーズベルトは、戦争を終結させたとして、ノーベル平和賞を受賞した。

1927年、チャールズ・リンドバーグが、ニューヨークとパリの間をノンストップで飛行した。所要時間は約33時間余りであったが、ニコラスはひそかに、自分のトナカイのほうが速いと思っていた。

コカ・コーラ社のサンタクロース
コカ・コーラ社では、ハンス・サンドブロムというスウェーデン系アメリカ人の画家を雇って、クリスマスシリーズの広告にサンタクロースの絵を描かせた。しかし最初、ハンスはサンタをエルフサイズで描いていたので、それに不満を抱いたニコラスは、じかにハンスに会いに行き、ハンスの前でわざわざポーズをとった。以来35年間、ハンスはサンタクロースを描き続けた。しかしサンタクロースの正体は絶対に秘密で、たとえニコラスがハンスのスタジオでポーズをとっているところに人が来ても、「退職したサラリーマンである」と紹介された。

プレゼントをもらえるのはいつまで?
この頃、ニコラスたちの仲間になったビル・ピケットが、「それぞれの子どもたちがサンタクロースからプレゼントをもらうのをいつやめるか、それはどううやって決めるのか」という質問をした。ニコラスは、「私が決めるわけじゃない。子どもたちが自分で決めるのだ」と答えた。

もうひとつ、「もし、いつか世界中の子どもたちがクリスマスにサンタクロースがプレゼントを届けてくれるのを望まなくなったらどうするのか」という質問には、こう答えた。「そんなことは起こらない。そうならないことを願っているよ」

2003年12月31日(水)
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