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■ A Christmas Memory, One Christmas, & the Thanksgiving Visitor/Truman Capote
「クリスマスの思い出」「あるクリスマス」「感謝祭のお客」の三作を収めた<イノセント・ストーリー>シリーズの原書。
物語のそれぞれの感想は翻訳で読んだときと同じではあるが、原書では、翻訳では味わえない、カポーティの繊細な感性を感じる。言葉の使い方や文体がとてもきれいで、彼の「心」にじかに触れるような気持ちがしてくるし、翻訳で受ける感動とはまた違った、デリケートな部分まで読み取れる気がする。なんて上手い表現だろうと感嘆する部分もあり、「早熟の天才」という呼び名は、まさにぴったりである。この本は、何度読んでも感動する1冊だ。
●「A Christmas Memory(クリスマスの思い出)」
両親の離婚によって、赤ん坊の頃から親戚に預けられたバディー。そこには無二の親友がいた。彼女はかなり年の離れたイトコここでは名前は出てこないが、(『あるクリスマス』に出てくるスックのこと)だが、バディーにはかけがえのない人だった。
毎年クリスマスになると、彼女は大量のフルーツケーキを焼く。これは周りの人にあげるのではなく、ローズヴェルト大統領だとか、親切にしてくれたセールスマンだとかに送るのだ。二人はせっせと小銭をため込んで、その日の準備をする。その様子がまた、心温まるかわいらしさだ。お金などなくても、彼らは幸せだったし、その世界はけして壊されたくなかったのだ。
おばあちゃんイトコのスックは、バディーと同じような精神年齢なのだろうか、年はかなり違うのに、やることや考えていることはすべて一緒。二人は他の大人たちから孤立しているが、二人の世界は素晴らしくイノセントで、本当に悪意などは影も形もないのだ。
同じく<イノセント・ストーリー>と呼んでもいいだろうと思える『草の竪琴』には、このスックとの暮らしがもっと詳しく書かれているのだが、双方に共通しているのは、もうけして戻ってはこない少年の日々への郷愁と、大人になることへの不安、悪意だらけの大人の世界からの逃避といったことだ。そして、少年時代のそういった美しく輝いている世界をそのまま持って、大人になってしまったのがカポーティだろう。そこに帰りたいと願うカポーティの切なる思いが、ここにもまた溢れている。
●「One Christmas(あるクリスマス)」
両親の離婚で、赤ん坊のときから親戚に預けられ、すっかりそこに馴染んでしまっていたバディー少年は、ある年のクリスマス、父親のもとで過ごすことになった。つまりその年は、父親が子どもと過ごす権利を得たというわけだ。初めて訪れるニュー・オーリンズ。そこにいる人々も、食べ物も、いつも暮らしているアラバマとは大違いだった。居心地が悪いが、父を傷つけまいと努力するバディーと、一生懸命に息子を喜ばせようとする父親。けして噛み合うことのない歯車が空回りする。
その頃バディーは、まだサンタクロースの存在を信じていた。田舎で一緒に暮らしている年の離れたイトコであるスックから、そう教わっていたからだ。しかしニュー・オーリンズで、その夢はもろくも崩れてしまった。父からの山のようなプレゼントを開けながら、それは父からだと知っているくせに「パパのプレゼントはどこ?」と聞くバディー。なんて小憎らしい!けれども、それがサンタクロースの夢を壊されたバディーの、せめてもの仕返しだったのだ。
父親もまた苦悩していて、息子を返さなくてはならない日には、正体もなく酔っ払い、苦しみをあらわにする。「パパを愛していると言ってくれ」と何度も何度も口にするが、バディーは答えない。ほんとに小憎らしい!
けれども家に帰ってから、バディーはこんな手紙を書く。
「とうさん元気ですか、僕はげんきです、ぼくはいっしょうけんめいペダルこぐれんしゅうしてるので、そのうちにそらをとべるとおもう、だからよくそらをみていてね、あいしてます、バディー」
そう、クリスマスに「パパのプレゼント」として改めて買ってもらった、ペダル式の飛行機のことを書いたのだ。
本書が出版された前年に、カポーティの父親は亡くなっている。本当はお互いに必要とし、求め合ってもいたのに、ついに心を通わすことのなかった父と子。その思いをつづった作品と言えるだろう。最後の手紙で、胸がつまった。ここには書かれていないが、ああしておけばよかった、こうしておけばよかったというカポーティの思いが、痛いほどに伝わってくる。大人になってからも、少年の頃の気持ちのまま、こうした物語が書けるのは、カポーティくらいのものではないだろうか。
●「The Thanksgiving Visitor(感謝祭のお客)」
上記2作と同じ舞台。 バディーは学校でいじめられており、もちろんそのいじめっ子のことは大嫌いなのだが、おばあちゃんイトコのスックは、家族や親戚がみな集まる感謝祭のディナーに、その子を招待してしまう。
嫌で嫌でたまらないバディーだが、バスルームでその子がスックの大事にしているカメオのブローチを盗むのを見てしまい、それをディナーの席上で公表してしまう。してやったり!と思ったのもつかの間。なぜお客様にそんなことをするのかとスックに責められる。そんなはずではなかったのに、ただその子に仕返ししてやりたかったのに、という思いで、心底悲しくなってしまったバディーは、その場から逃げ出す。
悪意をいうものを知らないスックと、社会に交わって、少しずつ悪意というものを知り始めるバディー。スックは「あの子はつい出来心でしてしまったけど、あなたはあの子を傷つけようと考えてしたのだから、そのほうが悪い」というのだ。憤慨しながらも、徐々に納得していくバディー。悪意というものはそういうことなのだ。そんな悪意などは知らないほうが良かったと思うのである。
そう思うのは、このエピソードに限らず、カポーティ自身が大人になって、世の中の悪意というものについても言っていることなのだろう。こんなことは知らなければよかった、あの悪意を知らなかった少年の頃に戻りたいと思っていたに違いない。そう考えると、この物語はほかのクリスマスものとは違って、カポーティが世の中のさまざまな悪意を知り始めた時期を示唆しているのかもしれない。
2003年12月25日(木)
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