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■ 火星のプリンセス―合本版・火星シリーズ<第1集>/エドガー・ライス・バローズ
目次 (1)火星のプリンセス (2)火星の女神イサス (3)火星の大元帥カーター
解説(1)
SFの鼻祖E.A.ポオ以降、その後継者を欠いて、大陸諸国にくらべれば一歩も二歩も遅れをとっていたアメリカで、スペース・オペラは突如として開花した。その光栄をになう男の名前はエドガー・ライス・バローズ。作品は火星シリーズ。そしてバローズの登場を契機としてアメリカはSF界の第一線に踊り出し、以来、今日にいたるまでその優位は失われていないのである。
バローズが第一作『火星のプリンセス』を発表した当時は、サイエンス・フィクションという概念はまだ成立していなかった。しかし地球と火星を舞台にした雄大なスケール、怪奇冒険小説のスリルとSF的興味が渾然一体となったその無類の面白さは、いわゆるスペース・オペラの典型を確立したものとして、20年代のSF興隆とともに多くの後継者を生むことになった。
ジョン・カーターの後輩はつぎつぎと大宇宙に飛び出していった。1930年ハリー・ベイツによる<アスタウンディングSF>誌の創刊により、SFの流行は一つの頂点に達し、スペース・オペラの舞台も太陽系宇宙からさらに銀河系宇宙へ、さらにアンドロメダ星雲へとその規模を拡大していく。いうなればバローズは、この絢爛たるスペース・オペラ時代の開幕投手の役割を演じたといえよう。
国民が青少年時代から愛読し、さらに老境に至って再読三読する偉大な国民文学ともいうべきものがある。アメリカにおいてそれを求めれば、まずこのバローズの諸作であろう。そして国民文学の魅力は、すなわち主人公(ヒーロー)の魅力に通じる。地球から単身、火星へ飛来し、妖怪変化のようなBEM(異星の怪物)を相手に縦横無尽の活躍をそ、逆境にあって屈せず、義に厚く情にもろい英雄ジョン・カーターの魅力を抜きに火星シリーズを語ることはできない。火星シリーズ全編を貫く作者の驚嘆すべき想像力、たくまざるユーモアと巧みな構成、効果的な伏線と強烈なサスペンス、要するに作者バローズは天成の物語作家であり、その筆の先から生まれたジョン・カーターは、いまや不朽の人間像(ヒーロー)として、ダルタニアンや孫悟空と肩を並べる存在となっているのである。火星シリーズは単なるSFの枠を越えた国民文学なのだ。
─厚木 淳
解説(2)
「バルスーム─バローズの火星幻想」
バローズと同時代に書かれたあの膨大なパルプ・フィクションが、忘れられるべくして忘れ去られたというのに、なぜ彼の作品には、これほどまで永続的な人気があるのだろう?この男の作品、とくにこの11巻の火星シリーズには、どんな魅力があるのだろう?
第一に軽視してならないのは、火星物語はそれが持つ、いくたの欠点にもかかわらず、依然として第一級の、手に汗握る冒険小説であるという事実である。アクションにつぐアクションの連続だが、そのペースはほとんどいつも快調で、鮮明に彩られ、愉快なほど異国的である。 (中略) 第二に火星の物語には神話のような真実性と極度の緊迫感と素朴な誠実さといった面がある。これがバローズの作品よりもっと洗練され、しかも技巧的な凡百の作品が及ばぬ魅力の世界を火星シリーズにあたえているのだ。(後略) バローズはただ読者を楽しませるつもりで、この物語を書いた。少なくとも本人はそう公言した。しかし彼は当初の目的以上の成果を達成したのである。
─リチャード・A・ルポフ
■<第1巻>『火星のプリンセス』
内容(「BOOK」データベースより) 南軍の騎兵隊大尉ジョン・カーターは、ある夜アリゾナの洞窟から忽然として火星に飛来した。時まさに火星は乱世戦国、四本腕の獰猛な緑色人、地球人そっくりの美しい赤色人などが、それぞれ皇帝を戴いて戦争に明け暮れていた。快男子カーターは、縦横無尽の大活躍のはて、絶世の美女デジャー・ソリスと結ばれるが、そのとき火星は…。
アメリカの南北戦争が終わった頃、南軍の大尉ジョン・カーターは、幽体離脱のような状況に陥り、一瞬のうちに火星へと移動する。なぜ?と思ってはいけない。とにかくそうなのだ。この本が書かれた当時は、火星には運河があり、生物もいると思われていた。カーターの訪れた火星にも、緑色人や赤色人をはじめ、奇妙な動物が棲息していた。さまざまな冒険を経て、火星のプリンセス、デジャー・ソリスと結ばれるジョン・カーター。しかし、人工大気を作り出している機械の故障で、火星は瀕死の状況に。それをカーターが救いに行くのだが、彼はそのまま再び地球に戻されてしまう。どうやら死に直面すると、宇宙空間にテレポーテーションするらしい(?)。火星の大気はどうなったのか?デジャー・ソリスは生きているのか?プリンセスとの間に生まれた卵(!)はどうなったのか?
というわけで、これはもう単純に楽しめる物語。かなり古い話なのに、SFとしても古めかしい感じがしないのは、素晴らしい。火星であるという設定と、火星人の奇妙な外観を想像しなければ、アーサー王物語とか、指輪物語などの冒険ファンタジーを思わせる。いわば、騎士道の物語といってもいい。最初にこれを読んだときには、アーサー王も指輪も知らず、とにかく痛快で面白い物語だと思って、夢中で読んだ。それが今でも変わらずに面白いと感じるのは、SFの名作中の名作である所以だろう。
それにしても、細かいところはほとんど忘れていたが、地球人と火星人が結婚して産まれてくるのが「卵」だったとは、全く記憶に残っていなかった。もちろん当時も、地球人と火星人は結婚できるんだろうか?などと思ったのは言うまでもないが。
それに、いくら大気を作っているとはいえ、成分が違うだろうに、いきなり平気で呼吸できるって不思議!とも思ったし、カーターは火星に到着して、たった3日で火星語をマスターしている。それもまたすごいことだ!というか、いきなり外国に放り出されたら、何の知識もなくても、なんとかなるもんなんだろうなと思った。
このジョン・カーターの話をまとめて出版の段取りをしているのがバローズであり、カーターは彼の大伯父という設定になっているのが面白い。巻ごとに必ずバローズのまえがきがあるのだが、そこからすでに物語が始まっているのだ。
■<第2巻>『火星の女神イサス』
解説 第二作目の本書のテーマは、形の上では失われた恋人デジャー・ソリスの探索であるが、実はそれにもまして、火星という一つの惑星全体を太古の昔から精神的に4敗してきた邪宗、女神イサスを頂点とする強大なホーリー・サーンの一大宗教組織を、ジョン・カーターが打倒するのが全編の主題であり、デジャー・ソリスの救出は第三作へと持ち越されることになる。 ─「スペース・オペラの開幕」厚木淳
一作目で突然地球に戻ってしまったカーターだが、地球で10年過ごしたのち、再び火星に舞い戻る。着いたところは火星人にとって「聖地」と呼ばれるところであったが、実はとんでもない場所であったのだ。ここで旧友の緑色人種タルス・タルカスと会ったカーターは、デジャー・ソリスとの間に生まれた息子カーソリスとも出会い、誘拐されたデジャー・ソリスを取り戻すべく、次々に波乱万丈の冒険を繰り返す。しかし、ここではあわやというところで思いかなわず、胸を引き裂かれるような別れの場面で終わる。
一難去って、また一難といった冒険の数々、火星の奇妙な生き物達やカニバリズムの風習など、一作目よりさらに奇想天外になっている。ハラハラドキドキもさることながら、デジャー・ソリスが目の前にいるのに助け出せないもどかしさに、ジョン・カーター同様、いらだたしさを覚える。早く、早く、とページをめくるのももどかしいくらい。それにしてもこのジョン・カーター、非常にポジティブでおめでたい人間だ。「私が火星で最高の戦士である」といううぬぼれも半端じゃない。しかし、愛する人を絶対に助けるのだという強い信念には心打たれる。
■<第3巻>『火星の大元帥カーター』
解説 火星シリーズ全作の中では冒頭の1、2、3作が三部作を成している。すなわち、カーターの火星到着、デジャー・ソリスの誘拐、彼女の救出という三段階で、ここでヒーローとヒロインは波乱万丈の冒険の果てにハッピーエンドを迎える。この三部作が、バローズの全作品中でも最高の、間然するところがない名作であることはすでに定評がある。・・・・・バローズの国際的な評価を示す一例として、つぎの事実をお伝えしよう。第二次大戦後にアメリカ本国ではバローズの全作品が爆発的にリバイバルしたが、時を同じくして1960年代の初めに、イギリスのオクスフォード大学出版部から国語教科書用テキストとして発行されている《ストーリーズ・トールド・アンド・リトールド》という権威あるシリーズの中に『火星のプリンセス』がいちはやく収録されたのである。ちなみにこのシリーズにしゅうろくされている作家は、ディケンズ、シェイクスピア、デフォー、スティヴンスン、ドイル、ウェルズ、サバチニといったそうそうたる顔ぶれである。 ─「スペース・オペラの開幕」厚木淳
第二作目で目の前でデジャー・ソリスを連れ去られたカーターは、愛と執念で彼女を取り戻すべく、火星の両極にまで旅をする。冒険に継ぐ冒険に、息をのまずにはいられない。この物語が書かれはじめたのは1911年で、今から100年も昔のことだ。科学の発達した今では、当然ながら物語の中に多くの疑問や矛盾も見うけられるが、全体として古めかしく感じられないのはすごいことだ。たしかに疑問をあげればきりがないほどだが、そんなことは問題ではない。100年前にこんなことを考えたバローズの想像力には、ただただ驚くばかりだ。
2003年08月14日(木)
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