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 遠い声 遠い部屋/トルーマン・カポーティ

傷つきやすい豊かな感受性をもった少年が、自我を見出すまでの精神的成長の途上でたどる、さまざまな心の葛藤を描いた処女長編。─新潮社

これは、カポーティが22歳の時に出版された長編第1作目である。先日読んだ『草の竪琴(The Grass Harp)』に非常に感動したので、これもとても期待していたのだが、期待はずれ。というのも、『草の竪琴』は翻訳がとても良く、以前から抱いていたカポーティのイメージ(少年ものの作品に対して)をさらに高めたのだが、この作品の翻訳は、カポーティのそのイメージを壊してしまっているからだ。

ここで言うカポーティのイメージ、それは私個人の感じたものにすぎない。が、それに外れてしまえば私には気にいらないということになる。そしてここの感想は個人の私的な感想であるから、それを正直に書いている。この訳を気にいる人もいるだろう。しかし、私には気にいらないということだ。私が深く読み取れていないというのもあるだろうが、言葉が滑っていってしまうのだ。おそらくこんな表現ではないはずという気がして仕方がないのだ。『草の竪琴』ではこんなことはなかった。心にどんどん入り込んできて、途中で立ち止まり、その部分を何度も読み返し、感動した。

訳は正確ではあるのだろうが、言葉の選び方とか、感性の問題だろうと思う。他の本でもそうだが、だいたい会話の部分でがっかりすることが多く、これもそういった例に漏れない。これを読んでいて、ディケンズの『大いなる遺産』(山西英一訳)を思い出してしまったのは、とんでもない見当違いだろうか?これも訳が気にいらなかった部類で、なんとなく訳し方が似ているような気がした。なおかつカポーティはディケンズにも影響を受けているようなので、それほどとんでもない見当違いということでもないだろうと思う。

翻訳者の河野一郎氏の「解説」は見事だと思う。さすがにどこかの名誉教授だったり校長だったりするだけのことはあり、的確に内容をとらえていると思うのだが、それが訳に活かされていないのは、残念。解説通りのイメージで訳されていれば、まるで違うものになっていただろうと思う。翻訳は正確なだけではダメだという見本のようなものかも。カポーティのような繊細な感性を持つ作家を訳せる翻訳家は、自身も繊細でなければダメということだろうか。

しかし、この話自体が訳すには難しいものであると思う。少年が大人への一歩を踏みだす、その境目の時期の話だが、ゴシックとファンタジーが入り混じったような不思議な空間と、詩的な文章。カポーティ自身が自分はホモであると自称しているが、その片鱗も見える作品である。確かにこれを訳すのは至難の技であると思う。作品の評価も、出版当初は両極端であったが、その後アメリカ文学の古典のひとつとなるまでに至った。いずれ、ぜひとも原書で読みなおしてみたい作品である。


2003年04月14日(月)
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