ほうじ茶飲話【JOYWOW】
2003年05月31日(土)
施しと正義
NYに住み始めてからしばらくの間、 アメリカ人のホームレスがうらやましくて仕方がなかった。 当然ながら英語が母国語、グリーンカードも必要ないし、 五体満足な彼らが、なぜ物乞いをするのかわからなかった。 私が同じ状況なら、マクドナルドの$3.75の時給だろうが なんだろうが、どこでだってバイトするのに。 あの頃は気持ちの上で完全なマイノリティで、 守られぬ国で生き抜いていくため、必死になることが日常だった。
初老のアメリカ人女性の友人から、 ホームレスをそんな風に思ってはいけないと諭された。 彼女は、教会の炊き出しボランティアに参加していて よければ一緒にやらないかとも誘われた。 二十代前半のスイス人の女性たちは、ホームレスに出会うたび、 かわいそうだからお金を恵んでいると語っていた。
私はボランティア参加もしなかったし、意見も変えなかった。 命を支えるお金を、誰彼かまわずに恵む気にもなれなかった。 ただ、その思いを口に出すことを止めただけだった。
今はうらやましいなどとは思っていないが、 いまだ欧米人女性達にありがちな、 あのボランティア意識に素直に賛同できずにいる。 なぜなのか、今日やっと言語化できた。
彼女たちのスタンスが、 大上段から見下す「施す」意識だから、なのだ。 食べ散らかしたパーティー・フードの残り物を、 もったいないからホームレスにあげる。 この「もったいないから」もさることながら、 「〜してあげる」にはいつも階級意識がつきまとっている。 それが、どうしても嫌だったんだ。
ホームレスである彼らが働く意志を持って、 ドアの開閉をしてくれた時や、 パフォーマンスが心に響く時。 わずかながらでもお金を渡していた。 私が受け取ったものへの対価として。 それが、日常から学んだ$1の重さに対する 私の正義だった。
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