詩を詩として


 詩を詩として考え、それ以外のものとしては考えない。


(レミ・ド・グールモン)





 冬休みに『シェイクスピアの墓を暴く女』(集英社新書/大場建治)を読みました。
 シェイクスピア=F・ベーコン説を信じて疑わず、エマソンやホーソーンをも巻き込んでその論説を発表しようとしたある女性について書いたもので、所謂「シェイクスピア学」の変遷などとも照らし合わせて書かれているので大変面白く読みました。

 それにしても…欧米の方のシェイクスピアに対する並々ならぬ執着が凄い。偏執的だわ。
 それも愛ゆえ。
 


 さて、この本は本として大変面白く読んだのですが、まったく思いがけず、その本の主旨とは違う単語や文章に最も影響を受けることがある。

 それが日記冒頭のグールモンの言葉。
 そしてニュークリティシズム。

 作者と作品は、完全に切り離されなくてはならない。
 作者の社会的、または歴史的個性は、作品を論じる時、完全に排除し、その上で独立したものとしてそれ単体で評価すべきであると主張する(『シェイクスピアの墓を暴く女』ではニュークリティシズムがシェイクスピア学に与えた影響について少しだけ触れている)。

 あ、御尤も。大賛成。

 映画を見る際に先入観になり得る情報を極力避けてきたのは、それ単体を評価したい為。
 作品ひとつひとつとそれぞれ向き合いたいが為。


 例えば映画のことを書くとき、「クローネンバーグだからこう」だとか、「リドリー・スコットだから」「フィンチャーだから」と、実に安易に口にしがちである(ワタシ自身もそうなのだけれど)。
 撮影監督がダレソレ、脚本がダレソレ、或いは役者がダレソレ、という情報と、作者の個性や生きた時代、その人生、人柄、過去の作品などの情報を包括して解釈しようとしがちである。
 なんだか沢山観てきたり、情報量の多いファンやマニアほどそうなりがちで、彼らはそうして「作者の意図」を導き出しそうとし、またそれこそが唯一の「正解」であると信じる。
 しかしそういったものを包括しなければ、作品は評価されないのか。
 作品それ単体では評価されないのか。

 作品以外の情報を以っての批評は、真にその作品の批評か。
 何らかの情報に囚われてはいないか。
 真に、その作品そのものを見ているか。


 けれど以前にも書いたが、コーヒーがフィルターを通して濾過されるが如く、自己というフィルターを通さなくては、作品を見ることはできない。身の内に取り入れることができない。
 それを突き詰めていけば、ともすれば「私の解釈」「僕の解釈」に終始し、客観性を欠いた独善的なものになってしまうかも知れない。
 ジレンマですね。
2003年01月17日(金)

メイテイノテイ / チドリアシ

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